花王化学物質過敏症裁判を終えて(裁判原告本人)

花王化学物質過敏症裁判を終えて
裁判原告本人

 花王㈱和歌山工場で、製品・原料の検査試験・分析業務に従事したことにより化学物質過敏症(以下、CS(Chemical Sensitivity)と表記)を発症し退職に追いやられたため、その損害賠償請求を裁判で争っていた原告です。この度、2013(H25)年9月12日に東京地裁に提訴し、約5年に亘る期間を費やして、2018(H30)年7月2日に判決があり、その後、被告・原告ともに控訴をしなかったため、同年7月19日に判決が確定し、結審に至りました。

 私たちがこの裁判で目的としたものは「業務による有害物質のばく露によりCSを発症した」との判決を得る事の一点だけでした。日本では、なかなかCSへの理解が進まず、いまだに「CSは心因症だ」などと決めつけ、疾病として認めない意見が大勢の中、CS患者は不当な扱いを受け、多大な不利益を被っています。特に、CSを発症し有害物のため学校に行くことが出来ない子供達が不当な扱いを受けていることについては強く心を痛めています。労災認定においても状況は酷く、厚労省はCSを労災として認定させないため、特別に「個別症例検討会」なるものを設置し、CS案件は実質ここで決定がされるようになりました。

 一般的に「検討会」が設置される場合は肯定派・否定派の立場の専門家を同数で構成するものですが、この「個別症例検討会」は否定派の医師4名だけで構成されていました。従って、当然全て「不支給決定」にされ、その検討内容なども一切公開されることもありません。そのような中、CSの発症者は増え続け、「香害被害」という言葉も生まれました。更に法令の改正等により、労働条件はどんどん悪くなっており、次の若い世代の安全・健康に就労する権利が脅かされていくことへの危惧もありました。私たちは、少しでもこの流れを変える力になりたいとの思いだけでこの裁判を戦いました。

 結果としては、判決で「原告は、被告在職中に検査分析業務に従事する過程で、大量の化学物質の暴露を受けたことにより、有機溶剤中毒に罹患し、その後、化学物質過敏症を発症したと認められる。」、「被告の安全配慮義務違反と原告が化学物質過敏症に罹患したこととの間には、相当因果関係があると認められる。」と認めていただく事ができ、CSという疾病が社会的に認められるためのステップを1段上がることが出来たと考え、ここでの目的は達成できたと思います。また、予想以上の反響に驚き、改めてご支援ご尽力いただきました皆様には重ね重ねお礼申し上げます。

 私が被告花王で就労させられていた環境は、労働安全衛生法、有機溶剤中毒予防規則、特定化学物質障害予防規則等々、あらゆる法令に違反していました。上長らには繰り返し是正・改善を求めましたが、花王は安全・品質・環境といった利益を生まない分野への投資を良としない社風があり、就労環境が改善されるどころか、その指摘が気に入らなかった上長らは、危険な業務が私に集中するよう担当を増やしていき、結果として大きな障碍を負うことになってしまいました。したがって、本損害賠償請求訴訟での原告の主張は明確で、数々の法令違反を具体的に上げ、それと疾病との因果関係を的確に説明することでした。

 問題なのは、その主張を立証することです。法令違反の証拠は全て被告が所持しているのですが、被告はこれを一切提示しませんでした。被告の花王は「法令違反は全く無い。」と主張し、「有機溶剤の使用量は法定基準以下で問題無い。」と言いながら有機溶剤の購入記録等の裏付けの証拠は提示せず、業務内容、作業内容も明らかにしませんでした。「作業場所の換気に問題は無い。」とも主張しましたが、換気装置の仕様書や配置図の提示もありませんでした。作業場所の環境測定を実施していないことについても「法令により免除されている。」と主張していましたが、免除された理由・内容について説明はなく、必須条件である所轄労働基準監督署が免除を認めた証書も提示しませんでした。被告花王のこれらの主張はすべて嘘なのですから、証拠を提示できるはずも無いのですが、「証拠さえ無ければ、否認さえしておけば無罪になる。」との考えが根本にあるようでした。

 それに対して原告側は、著名な研究者のご協力をいただき、就労環境の再現実験を行った結果、有機溶剤の暴露が単体でも法定基準の10倍以上あったことを証明しました。また、労基署に被告の法令違反を申告し臨検調査をするよう求めたところ、2014(H26)年9月24日に被告に対し是正勧告が行われ、「有機溶剤業務を行う作業場所に、有機溶剤の蒸気の発散源を密閉する設備、局所排気装置又はプッシュプル型換気装置を設けていない(安衛法第22条(有機則第5条)違反)」、「定期に有機溶剤濃度を測定していない(安衛法第65条第1項(有機則第28条第2項)違反)」、「有機溶剤等を入れてあった空容器で有機溶剤の蒸気が発散するおそれのあるものについて、当該容器を密閉するか、又は当該容器を屋外の一定の場所に集積していない(安衛法第65条第1項(有機則第28条第2項)違反)」といった法令違反が明らかになり、原告の就労環境が違法な状態であった事を証明することが出来ました。

 しかし、この是正勧告書の内容を明らかにすることは簡単ではありませんでした。まず、労基署に情報開示を求めたところ、労基署は「業務上の秘密」や「以後、花王の協力を得られなくなると困る。」等の理由でこれを拒否しました。そこで、裁判上の手続きとして被告花王に対して、2015(H27)年2月13日に文書提出命令の申し立てを行いましたが、花王も「業務上の秘密」や「プライバシー保護」等と主張し提出を拒否しました。裁判所はしばらくこれを保留していましたが、証人尋問の後に審議を再開し、2017(H29)年6月16日に東京地裁(小野瀬厚裁判長)で「相手方(花王)は是正勧告書を提出せよ。」との決定が下りました。花王はこの決定を不服とし、東京高裁に即時抗告しましたが、同じ主張を繰り返すだけでしたので、決定が覆ることはなく、2017(H29)年9月29日に東京高裁(中西茂裁判長)は花王の「抗告を棄却する。」決定を行い、ようやく被告花王は「是正勧告書」を提示したのです。この決定では、被告花王の主張を全て否定し退けただけでは無く、同時に、和歌山労働基準監督署長の意見も厳しく非難した内容であり、判例として価値のある決定になりました。

 東京高裁でこの是正勧告書の文書提出命令が確定し、就労環境の法令違反が明らかになった後も、被告花王は「原告の就労環境に問題は無かった。」との主張を変えませんでしたが、そんな主張が認められるはずも無く、この再現実験と是正勧告が裏付けとなり、作業環境での有責性については原告の主張を全面的に認めていただくことができました。全てにおいて被告花王の対応は誠実さの欠片も無い酷いもので、呆れるばかりでした。

 次に、この就労環境での有機溶剤等暴露とCS発症との因果関係との証明ですが、これは5名の専門医による診断結果と、うち3名の専門医による意見書、これら内容の全てが同じ方向性を示し、原告の主張と矛盾しなかったことで、裁判官に「急性有機溶剤中毒を繰り返した結果、慢性有機溶剤中毒へと悪化し、更にCSに罹患した。」と認めていただく事ができました。冒頭にも書きましたが、社会がCSという病気を認めようとしない現状で、裁判でCSという疾病が認められた、画期的な判決をいただく事が出来ました。

 この専門医の意見書に対し、花王は和歌山工場の産業医の意見書を持って反論しましたが、この意見書の内容も酷く合理性に欠き、理解しがたい内容でした。要約すると「職場での有機溶剤中毒は、実際の現場を調査せずに診断することは出来ないので、それが出来ない専門医らの診断は誤りだ。」というものでしたが、調査できる立場にある産業医当人が「産業医は調査も診断もしない。」といった説明しており、つまり「工場内の事は誰も調査しないし出来ないので証拠は無い。」と、事実を隠蔽し責任を逃れようとしているとしか思えない(実際そうなのですが)内容でした。そのような無茶苦茶な理屈が認められるはずも無く、最後になって花王が持ち出してきたのが「時効の援用」でしたが、これについても、「いつ時効が成立した」といった説明も無く、根拠も乏しく、ただ ごねているだけ、といった状況に見られました。本当に酷い対応でした。

 最後に、勝つことが困難とされている大企業を相手に勝訴を勝ち取ることが出来た勝因について、私なりにまとめて終わります。どれも当然と言えば当然の事ばかりですが、意外とそんなものです。

■ 事実である事・・・あたりまえですね。
■ 原因と結果が明確である事・・・CSは原因の特定が困難な場合もありますが、重要です。
■ 自分一人で出来ると思わない事・・・どんなに事実を合理的に説明しても、本人の証言だけでは信用されません。「会社は認めなかったけど、本当の事だから労基署は信じてくれるはず」「労基署も信じてくれなかったけど、事実だから裁判所は分かってくれるはず」と考えがちですが、それだけで認められることは、まずありません。しかるべき立場の人に協力を求め、意見を得ることが必要です。
■ 出来る限りの準備をする事・・・証拠の収集、当面の生活費の確保など
■ 目的を明確にする事・・・裁判で何を勝ち取りたいのかを一つにしぼる。「全部認めて」では難しいです。

 それから、CSの患者は電車やバスに乗る事さえ困難です。それが長距離の移動をするとなると相当な覚悟が必要になります。また思考力も低下し、ろれつも回らず、短時間話しただけでも息が上がってしまう状況で、遠方の医師や弁護士、支援団体等の協力者に何度も相談・説明に行くことは、肉体的にも精神的にも(経済的にも)大きなダメージがあり、後の回復には長い時間が必要になります。しかし、ここを頑張らずに勝利することは難しく、相当な無理をすることになります。すると一番大事なのは「覚悟」かもしれませんね。

 なので、裁判なんかやらないのが一番いいし、そもそも、体が壊れるまで無理をして働く必要なんか全然ありません。危険な仕事だったら取り返しがつかなくなる前に辞めたほうが利口です。障碍を負う前なら、まだやり直しもそう難しくありません。もう何もできないほど悪化して障碍者になっても、会社は責任をとらないし、行政も保証してくれません。自分と家族の健康と生活は、自分で守るしかないんです。

 以上、乱文失礼いたしました、ご容赦の程を。私はこれから、驚くほど理不尽な理由で不支給にされた、本裁判にかかる労災休業補償の審査請求を戦うことになります。