私の医者人生と東北地方の出稼ぎなど(神奈川労災職業病センター所長 天明 佳臣)

 この度、令和3年(第66回)秋田県功労者8人のうちの1人に選ばれ、表彰されました。長年にわたって多くの出稼ぎ者の訪問健診を行ない、健康を支えてきたことが評価されました。他の医療機関と共同で「首都圏出稼ぎ者健康ネットワーク」を形成したことを評価すると伝えられました。この機関誌の読者の方であれば、センターの小野隆君も表彰対象となって当然とお考えになるでしょう。しかし、ご存知の通り16年1月3日に亡くなりました。晴れがましい表彰台に座って、私は小野君のことがしばしばよぎりました。
 ここでは、私の医者人生と出稼ぎについて記載したいと思います。

外科医になる

 大学を卒業後、1年間の臨床研修(インターン)が終わる直前に、私は東京都北区にあった労働者クラブ生協付属病院(以下「労ク病院」と略)の林俊一先生を訪ねました。林先生の著書『農村医学講話』に傾倒していたからです。

 約束した土曜日の午後に病院を訪ね、年季の入った木造の玄関に入ると、目の前に大きなダルマストーブがあり、その周囲には自動車のタイヤを切って作ったゴムスリッパが山のように積まれていました。これには愕然としました。鉄筋3階建ての病院の建築計画が進行中ではありましたが。

 労ク病院のスタッフは、内科医3人、小児科1人(林院長)、産婦人科医1人、パートの整形外科医1人。欠員ありと言われた外科医は1人、週3回のパート1人、夜勤のみ4回のパート1人。「医療に恵まれない人たちは、農村ばかりではなく、この病院の周辺にたくさんいます。欠員ありの外科に入局しませんか」との林院長のお誘いに、私の気持ちは動きました。大学病院の新人は無給でしたが、ここでは給料が出ることもあって外科の一員となりました。順天堂大学病院外科から週3回パートで来ていた和賀井敏夫先生は、超音波診断装置を開発中の研究者でもあり、消化器系の外科手技や全身麻酔について教えていただきました。

 労ク病院での2年目に、2人の出稼ぎ労働者が入院してきました。最初は青森県の人で、激しい腹痛で2人の同僚に担がれてきたのです。胃潰瘍の穿孔による汎発性腹膜炎で即入院、手術となりました。術後の経過は全く順調だったのですが、私は方言を聞き取ることができず、ほとんど会話を交わすことなく早々と退院していきました。医療保険は日雇い保険で、郷里の国民健康保険と二重にかけていました。

 2人目は秋田県大曲市の人で、道路工事中の左手挫滅創、指骨の骨折でした。その原因についてはあまりはっきりと言っておられませんでした。2人組作業の相手方のミスだったようでしたが、相方は出稼ぎグループのリーダーだったようで遠慮されていたのでしょう。入院が長くなり、私が日曜日に出勤して処置をしたときに、出稼ぎについていろいろと話をしてくれました。
彼の退院後、東邦大大森病院の友人医師と看護師の協力を得て、出稼ぎグループ(15人)の健康診断を行いました。高血圧の方が1人いましたが、国保の遠隔保険証を持っていました。郷里の医師から処方された薬を家族が郵送していました。「体調不良があったら、こちらのお医者さんに行きます」とのことでした。

柳沢文徳教授との出会いと別離

 千葉大学医学部付属腐敗研究所に柳沢文徳教授という方がいました。同大理学部生物学科卒の私の妻は、食中毒研究の手ほどきを腐敗研究所で柳沢教授から受けました。その柳沢教授が、東京医科歯科大学医学部に新設された、農村厚生医学研究施設に移籍されました。教授に同伴したスタッフは、助教授をはじめ、妻も含めて全員が細菌学の研究者でした。私の妻が柳沢教授に「夫は、東北地方からの農民出稼ぎの健康問題に関わっています」と告げたところ、「労ク病院に在籍のまま柳沢研究室の専攻生になって、出稼ぎ農民の保健研究をしてはどうか」と提案されました。私は、教授と共作で論文をまとめ、さらに農林省の出稼ぎ関連の統計資料を集めてもらうこともできました。

 一方、労ク病院では外科医長が退職、医院開業となり、和賀井先生は超音波診断装置研究に集中するために退職されました。労ク病院は3階建ての外来・病棟が完成して、日大病院から3人の外科医が派遣されてきました。私は外科では浮いた存在になってしまい、柳沢研究室に助手として転出しました。

 1966年2月23日に東京の社会事業会館久保講堂で開催された第2回全国出稼ぎ者総決起大会に柳沢研究室から参加し、社会党農民部の役員に調整してもらって、秋田県南部の雄勝町の出稼ぎグループの健康診断を行いました。

 柳沢研究室では、助教授の方が新設の医科大学衛生学教室の教授として転出して、私は講師になりました。すると、専攻生(戦時中の臨時医専を卒業した開業医が多かった)の方々から、助教授に代わって研究室ナンバー2となった私が「研究費徴収係」(そんなものがあるのを私は知りませんでした)と思われて、さまざまな「研究費」を渡されるようになりました。教授に説明を求めたところ、突然私と話をしなくなってしまい、私に対する指示を黒板に書くようになりました。

 私は、妻が提出していた「腸炎ビブリオ食中毒の予防について(英文)」の博士論文の教授会の審査を通り、彼女が医学博士を取得すると同時に、柳沢研究室を退職しました。

出稼ぎ送り出し地である山形県の病院勤務

 東京医科歯科大学を飛び出した私に、すぐに仕事の依頼が舞い込みました。何回か文通を交わし、あるときは東北農民の出稼ぎ現場を案内してもらったこともある山形県上山市の農民である佐藤彦三郎さんから、県内の青年団が東京で健康診断を企画しているので協力してもらえないかというものでした。

 それは西置郡白鷹町の青年団で、前年に青年団の活動家が脳卒中で亡くなったことを契機とする企画でした。私は協力を申し出て、東邦大大森医療センターの友人にも手伝ってもらうことになりました。その健診には白鷹町の町長さんも参加していました。私が無所属の外科医だという実情を知ると、白鷹町立病院には内科医2人だけで困っている、是非とも赴任してもらえないかという話になりました。健診の手伝いに来ていた妻とも相談して、健診報告などが終了した時に、町長さんに承諾のお返事をしました。

 白鷹町立病院には4年間勤務しました(家の光協会から出版された「しらたか通信」にまとめました)。白鷹町を離れる決断は、イギリスのバークシャーにあるレディング大学農学部の農業労働研究部への留学のチャンスがあったからでした。1年間は瞬く間に過ぎて帰国すると、白鷹病院には空席はありませんでした。隣町の川西町立病院の東京医科歯科大出身の内科医から声がかかって、外科医長の手助けと町立僻地診療所の担当として単身赴任することにしました。

 川西町立病院での3年目に入ってすぐのことです。上京する機会があり、実家の玄関を開けると、父が顔を出して「どちらさまですか」と言ったのです。認知症が進行していました。母と妻だけでは父のケアは難しいことをいろいろ聞かされ、帰京を求められました。

港町診療所に赴任

 川西町立病院の離職を決断した頃、思いがけず労働科学研究所の小木和孝さんが、川西町の僻地診療所に訪れました。帰京してすぐに今井重信さんと面談の機会が設けられて、新設される神奈川県勤労者医療生活協同組合港町診療所への赴任が決まりました。自宅では父親のケアの一員となりました。例えば、父の入浴の際に私は海水パンツをはいて付き添い、母か妻に援助に加わってもらい、賑やかにかつ楽しい父の介助となったのです。

 港町診療所では、月1回の日曜に今井重信さんと平野敏夫さん、私の3人で岡山大医学部衛生学教室に行きました。大阪港、神戸港、下関港で診療活動をしている医師たちと「港湾病研究会」(港湾病とは港で働く労働者に共通する腰痛などの疾病の総称)に出席するためです。岡山行きの日曜が来るのが楽しみでした。

小野隆君と出稼ぎ健診活動を再開

 港町診療所が現在の金港町に移転後、労災職業病センターの小野隆君と訪問出稼ぎ健診を再開しました。その第1回目が茅ヶ崎の建設現場だったのですが、秋田県雄勝町の出稼ぎ者で、私が医科歯科大在職中に初めて実施した出稼ぎ健診で出会った人たちでした。1人の方はなんと、私が当時書いた健診結果通知書を持っておられて驚かされました。当時は若手だった人たちが、白髪が増えて日焼けした顔には深いしわを刻んで、働き続けていたのです。

建設現場のアスベスト被害

 建設現場におけるアスベストばく露について言及して締めとします。出稼ぎ者の多くが建設現場で働いていたからです。建設現場は出稼ぎ者ばかりではなく、ある意味では本工にとっても「臨時の作業場」、「完成までの一時的な作業場」です。また、工場のような屋内作業場であれば義務付けられている局所排気装置や作業環境測定の義務もありません。アスベスト吹付作業やアスベスト含有建材の切断作業が適切な保護具も提供されないまま行われていることが多かったのです。

 アスベスト粉じんにばく露すると、石綿肺・肺がんを発症し、比較的低濃度でも中皮腫などを発症します。肺がんや中皮腫の潜伏期間は20~40年以上になることもあります。60~70年代にばく露した出稼ぎ者の発症が、1990~2010年代になるわけです。

 中皮腫の場合、診断の難しさという問題がありました。本誌でも紹介した山形の出稼ぎ者のケースを再掲します。2006年に75歳で亡くなったSさんは、川崎や千葉の石油コンビナート、プラントの配管工として1969年から1979年までの約11年間、夏のお盆と正月だけ家族のもとに帰る、いわゆる「通年出稼ぎ」として働き、アスベストにばく露しました。Sさんは、2006年4月に山形県立新庄病院で悪性胸膜中皮腫と診断され、わずか3ケ月後に亡くなりました。新庄病院の診断書には悪性胸膜中皮腫と書かれてあったのですが、ご遺族は、「山形大学医学部付属病院の病理検査で、中皮腫は否定された」との説明を受けました。納得できないご遺族は、残っていた故人の肺組織を貸し出してもらい、がん研究所の石川雄一病理部長(当時)に調べてもらいました。中皮腫と診断した石川医師の検査報告書に従って、労働基準監督署は中皮腫として労災認定しました。かなり改善されてきたようですが、今でも誤診例がないとは言い切れないでしょう。