【追悼】天明佳臣 医師(神奈川労災職業病センター所長)現場に寄り添う医療を続けた60年間の軌跡

はじめに

【インタビュアー】早川 寛(神奈川県勤労者医療生協 専務理事)

 神奈川労災職業病センターの所長および神奈川県勤労者医療生活協同組合の港町診療所の所長、そして医療生協の理事長を長年務められた天明佳臣先生が、2022年5月30日に亡くなられました。享年90歳。亡くなられる直前までライフワークのひとつ、東北からの出稼ぎ農民についての報告を書き綴られ、亡くなる2日前に完成させていました。天明先生の人柄と思いの強さに感服するばかりです。

 今回、神奈川労災職業病センターの機関誌に掲載するのは2018年に「記憶を記録に」という企画を立て、天明先生に何回かに分けてお話し頂いた記録です。しっかりと準備され、お話をして頂きました。なお「記憶を記録に」という企画は「じん肺被災者支援基金」の支援によるものです。

 この40年を超える活動についてのお話を聞くと、改めて天明先生の活動の広さ、つながりの深さを感じます。お話の中で出てきますが、1979年8月にオープンする港町診療所の所長に就任されたのは、たまたまの好機とでも言うべきでしょうか。1978年1月に結成された神奈川労災職業病センターのメンバーはあまり天明先生のことを知らなかったのです。その天明先生と活動を一緒にしたのは、お話の中にも出てくる当時の横浜市立市民病院の調理師の2人が心筋梗塞で倒れ、公務災害の認定についての相談からです。

 港町診療所ができる直前、2回にわたって市民病院の調理職場で調査を行いました。そこは半地下で夏の暑さと、調理の火の熱とが合わさって大変な暑さと疲労でした。調理具材の調達で冷蔵庫に入り作業し、そして冷蔵庫から出てきたら暑い中で火を使うという仕事です。天明先生は労働科学研究所の方々と一緒になって調査し、その結果をもとに職場環境が原因となる心筋梗塞として報告書を作り、横浜市当局へ突き付けました。そして見事に公務災害認定がされます。更にその影響もあって、建て替えた後の横浜市民病院の調理職場は建物の一番上階に作られました。

 神奈川労災職業病センターは発足以来、いわば突進力、何が何でも労災として認めさせるぞ!と企業や行政に迫る活動をメインにしてきたので、このような天明流とも言うべき活動はこれまでにない新しい展望を開きました。また港町診療所がオープンした1979年10月から始めた「労災職業病講座」では、ビラ配りや電柱へのポスター貼り、労働組合への働きかけを行いました。各会場が予想以上の大盛況で、天明先生にも講師として重要な役割を果たしていただきました。

 天明先生の取り組みが、神奈川労災職業病センターの活動の大きな礎となったのです。感傷に浸りながら、天明先生のインタビューを読んで頂ければ幸いです。

港湾労働者の集団健康調査と神奈川県勤労者医療生協の設立

【早川】 最初に、天明先生のそもそもの生い立ちから含めて、なぜ港町診療所なのかというあたりから入っていただいたほうが良いのかなと思うのですが。

【天明】 港で働く労働者の全国組織である全日本港湾労働組合、いわゆる全港湾は、1977年10月に全組合員の健康調査をやっているのですね。かなり深刻な問題を抱えている人、運動器疾患ばかりでなく、様々な肺疾患などもあることがわかりました。そういうことで全港湾の横浜港分会というのは日雇いの労働組合ですが、そこの健康調査をやって、かなり問題があると。この健康調査をやったのは港湾病集団検診実行委員会で、十条通り医院の斎藤竜太ドクター、それから鍼灸師として港湾の労働者のために鍼灸などをボランタリーでやっていた鳥谷部トシ子さんがその代表になりました。実行委員会が設立されて、そのすぐ後に設立した神奈川労災職業病センターと労働科学研究所の人たちも協力して、1978年4月に健康診断を実施して、日雇いの44名のうち、腰椎に異常がある人が77%、肝障害が36%、心疾患の疑いが46%という、予想以上の健康状態の悪さが明らかになりました。

 とりあえず今井重信ドクターが中心になって、腰椎や運動器疾患に関する異常がある人たちについて労災申請することになりました。最初に16名が申請して11名が認定されました。その後も五月雨式に労災申請を行い、認定されていきました。その当時、今井さんが書いた「横浜港における第一次港湾病認定闘争と医師統一意見書」があるのですが、これはかなり充実したもので、悪い環境の中で、しかも危険な作業をしている港湾作業とはいったいどんなものか、私もこれを読んで初めて知りました。それぞれの作業内容によって労働者の負担が共通に悪いわけですが、特にこの作業の場合はどこが悪いというような統一意見書、素晴らしい意見書を書いていただきまして、労働基準監督署に要求するばかりではなく、初めて港湾の労働者の方々の健康問題を考える上で、私はずいぶん参考にさせてもらいました。

 このような話を進めているうちに独自の医療機関が必要なのではないかという議論になり、全港湾横浜支部に相談して、大阪の松浦診療所、大阪港の労働者の健康問題に取り組んでいる人たちのところに行って、実際に松浦診療所の現状と経営実態について勉強をして、我々も診療所を作ろうじゃないかという話に発展していきました。

いったん生まれた赤ん坊を母親のお腹に戻すことができるか

 ところがそれでひとつ問題が起こるわけです。横浜の港湾施設である万国橋の福祉センターの中にある空いている診療所で開設しようということで、1979年2月に万国橋福祉センターのホールで200人が集まって、医療生協設立の大会を開きました。

 ところがそれに対して、港の業者が一斉に反発するという事態になりました。そんな診療所ができて、労災職業病の拠点になるなんていうのはとんでもない話だとすったもんだしました。ここで全港湾横浜支部の当時の委員長の庄司さんが、もう診療所は生まれようとしているんだと、いったん生まれた赤ん坊を母親のお腹に戻すなんてことができるかと啖呵を切って、横浜の桜木町にある全港湾横浜支部の港町ビルの4階を使わせてもらうことになりました。オープンしたのが1979年8月1日です。これが港町診療所の誕生ということになります。当時はレントゲンが無いというような事情で、隣の整形外科にレントゲンを貸してくれないかと、今、考えるとかなり図々しい話を持ち込んだわけですが、断られました。

【早川】 予防医学協会にお願いして行ってもらいましたね。

【天明】 予防医学協会ですね。何人かまとまって、日によって車で予防医学協会まで行ってレントゲンを撮る。実際にやったのは3回か4回ぐらいですね。そのうち同じフロアーの一室が空いたのでレントゲンを入れました。

はりきゅう労災裁判勝利と横須賀中央診療所の設立

 4年後の1983年3月にこの場所(現住所・横浜市神奈川区金港町7ー6)に港町診療所を新たにオープンする。もともと横浜市が所有する土地の空き地でした。ここに、全港湾の方々のカンパそして県や横浜市からも資金が出て診療所を建てた。建物の所有者は港湾労働者福祉協会です。その2年後に別館を隣に建てた。さらに後になりますが、2階、3階に、歯科と婦人科の診療所を設けたという経過です。

 最初は整形外科の今井ドクターが中心になって運動器疾患の労災申請の問題をやり、私は元々外科をやっていたので外科を、実際は内科も診ましたけれども。斎藤ドクターは週に一度来てくれるということで、まあまあの体制で最大限診療したわけです。

 ところが、我々を取り囲んでいる社会情勢とも対峙をしなければならない。直接問題になったのは、一方的に治療期間を決める労災認定患者の鍼灸の治療期間制限の問題です。これは県の七沢リハビリセンターの労災鍼灸患者が裁判を起こしました。私も証言に立つなどして、鍼灸の有効性について、慢性、長期にわたる頸肩腕、あるいは腰痛に対して、鍼灸治療がいかに有効であるかというような証言をしまして、実質的にはこの裁判に勝利します。労働省(当時)が、いわゆる375通達を全面的に撤回することになりました。

 同時に、私たちが取り組んだのは、造船労働者、基地労働者のじん肺アスベストの問題です。これが元になって、神奈川県勤労者医療生協としては、横浜だけではなく、現地の横須賀に診療所を持つ必要があるということで、横須賀中央診療所をつくる基礎になるわけです。

 そういう運動を進める中で、1986年10月、空母ミッドウェイが修理のために横須賀港に入港してきました。そこで出たアスベストをどこに捨てるかという問題が大きくクローズアップされてきました。要するに航空母艦は艦上にあるカタパルトのところは耐熱性を要する構造になっています。そこから大量のアスベストが出てくる。ちょうどその頃、東京都の職員だった田尻宗昭さんが定年1年前にしてお辞めになって神奈川労災職業病センターの所長になりました。100人を超えるスタッフを抱えたところの長だった人が、たった4人のスタッフの労災職業病センターに来られた。先ほど申し上げたミッドウェイから廃棄されたアスベストをどこでどう処理しているのかを、センターの職員2人が交代で基地の前で見張るというような活動も行いました。これは国会でも大きく取り上げられ、当時の社会党の岩垂議員が政府に対して、あんないい加減な扱いでいいのかと追及をするというようなことがありました。田尻さんは八面六臂の活動をされましたが、病を得て早くに亡くなってしまいました。我々としても田尻さんとの付き合いはそう長くはなかったのですが、彼が残してくれた活動のスタイル、あるいは国会へ問題を結びつけるというようなことに関しては、我々はたくさんのことを学んだと思っております。

 そういうことを契機にして、1989年に横須賀中央診療所がオープンし、活動を開始しました。主要な問題はじん肺、特に造船労働者のアスベスト関連の疾患です。横須賀共済病院の呼吸器内科に三浦先生という方がおられて、彼らが発表した中でも、肺がんの中で特にアスベストに関連するアスベスト肺がんの問題について、致命率の高い疾患であるということもあり、名取雄司ドクターが中央鉄道病院から来て、三浦先生のところで研修するというようなこともありました。その研修を続けてきた名取ドクターを所長にして、横須賀中央診療所がスタートします。そして、その翌年、斎藤ドクターの十条通り医院が医療生協へ加入しました。

出稼ぎ労働者の集団健康診断の取り組み

 私は大学を卒業してすぐ大学病院に残らず、東京の北区にある労働者クラブ生協付属病院というところで外科をやっていました。そのときに外来患者として来た人で、保険証を持っていない人もいました。保険証も日雇健保で、よく聞いてみると東北からの出稼ぎ者でした。山形で5年半ほど勤務して、家庭の事情でこちらに戻ってきたわけですが、その後、出稼ぎの問題に取り組むことになります。

 港町診療所の仕事が一定、軌道に乗ったところで、東北地方から首都圏に働きに来ている出稼ぎ者の問題について労災職業病センターの小野隆君と相談しまして、再度、取り組むようになりました。

 1987年1月のことだったと思うのですが、小野君が見つけてきた神奈川県茅ヶ崎市で働く秋田県からの出稼ぎ者のところに私たちが行って、どうも見たことのある人がいるなと思いました。よく話を聞いていると、彼らは秋田の県南の羽後町というところがあるのですが、ほとんど山形県に接するような町から来ている人たちでした。びっくりしたのは、そのうちの1人は、私が東京医科歯科大学の農村厚生医学研究施設で実施した健診を受けた方でした。ちょっとびっくりしましたが、思いがけない再会でした。

 3年ほど続けて1990年1月から3月にかけて、秋田の4つの市町村から来ている出稼ぎ者の、出稼ぎ先での指定医療機関として港町診療所が指定されました。1年に208名の健診を行いました。10ヶ所の事業所でやりましたが、私にとっては一種のライフワークのような感じで取り組んでいる、出稼ぎの問題についても一定続けていく目処が立ちました。これに関しては、先ほど申し上げた秋田県出身の労災職業病センターの小野隆君の協力が非常に力になりました。私のほうは日常診療がありますから、秋田県の人たち、あるいは4つの市町村との交渉は全部、小野君がやってくれました。

外国人医療とMFーMASHの取り組み

 それから外国人医療の問題に関わってきます。港町診療所に初めて外国人労働者が受診してきたのは、1987年5月、フィリピン人でした。これは横浜市の中区寿町にあるカラバオの会から紹介された患者です。カラバオの会とは、寿町に発足した市民のボランティア団体で、「寿・外国人出稼ぎ労働者と連帯する会」の通称が「カラバオの会」で、カラバオというのはタガログ語で水牛という意味だそうです。

 寿の宿泊所の場合は、日払いの宿賃を払っていれば国籍は問わないというようなことで、外国人労働者が増えた。最初はフィリピン人、後にイランや韓国の人たちも入ってくるようになるわけですが、ともかく港町に最初に訪れた患者さんはフィリピン人でした。

 そのころからいわゆるオーバーステイになった、日本での在留資格、労働資格を持っていない方がいる。彼らが働くのは、きつい、汚い、危険といった3K職場、日本人が嫌がるようなところ。実はそこが日本の、東北地方からの出稼ぎ者の仕事場でもあったわけです。東北の出稼ぎ者人口が減る中で、彼らの後継者もかなり農業離れが進んでいく中で、3K職場で働く現場労働者の穴埋めとして入ってきたのが外国人労働者だと私は思っています。それでたちまち増えていく。

 そこで1991年に外国人の労働者のための互助会として、港町健康互助会(Minato-machi Foreign Worker’s for Mutual Aid Scheme for Health)という、略称MFーMASHを立ち上げました。実際には月に2000円払うと、国民健康保険並の3割で治療します。そもそも働きに来ている方々は、はじめは韓国やイランの人たちが多かったのですが、だんだんアフリカの国々から働きに来る人が増えてきた。自分の母国で健康保険というシステムがないと、何もしないのに月々2000円払うというのは、なかなか受け入れられないかと心配でしたが、ともかく増えてきました。このMFーMASHがうまくいかなければ、我々の外国人医療の活動もかなり苦しくなります。

 2000年の時点で会員になったのは75ヶ国で、のべ7215人。これは港町診療所だけの話で、十条通り医院や、横須賀中央診療所に来た外国人を入れると8000名を超えます。港町診療所の活動分野として外国人医療が入ってきました。このMFーMASHの話は東京新聞の夕刊で大きく取り上げられました。発足日の1991年11月1日には、ジャパンタイムスがこれを大きく紹介し、この記事が、私たちにとって忘れられない経験につながりました。

 チャールズ・ブロビイという30歳のガーナ人です。1990年4月に来日して、千葉県の船橋市で働いていました。1991年1月に頑固な咳があって受診して、結核の疑いということで治療もしていたが、だんだん自覚症状が強くなってきた。1991年11月11日に港町診療所を受診します。胸が痛い、息切れがする、といったような主訴で、胸部レントゲンを撮ると、どうも肺がんの転移巣がある。CTを撮ると肝臓がんがわかりました。もうこれ以上、働くことはできず、ともかく身体的な疲弊状態がひどかったので、輸血その他の措置をしないと帰国できないということでケースワーカーの人と協力して済生会の神奈川県病院に入院することになりました。11月12日に港町診療所に泊まって、13日に入院します。ガーナ大使館、横浜入管に、このケースについていろいろ相談しました。11月25日に退院して、26日に帰国する前にもう一度、港町診療所を受診します。彼の帰国の航空券の領収書が出てきまして、22万3千円。この帰国運賃を誰が負担したのか、ちょっとはっきり記憶に無いのですが、26日にイスタンブール経由、カイロで3泊してラゴスからガーナのアクラへ28日10時30分にアクラに着いたという、この帰国の旅はチャールズ・ブロビイにとって大変辛いものだったと思いますが、翌月12月29日に死亡したと、彼の兄弟から知らせが来ました。これは全統一労働組合が外国人問題に取り組んだ最初の事例で、今は移住連(NPO法人移住者と連帯するネットワークhttps://migrants.jp/index.html)の代表をされている鳥井さんと取り組みました。チャールズ・ブロビイさんの事例は、東北の出稼ぎ者の減少の穴を埋めるような形で現れた外国人労働者の一例です。私たちもこんなに多数の国から働きに来ているということは、MFーMASHを作って初めてわかりました。

 外国人医療の問題に関して心配なのは、今では神奈川では通訳体制も十分に確立して、言葉の点では大きな問題は起こっていないのですが、オーバーステイになったり、在留資格が無い方の場合は健康保険は適用にならない。労災の場合は、雇用関係があれば労災が適用されるので、外国人も労災で医療費が負担されますが・・・。ともかく日本の産業界は、外国人労働者の受け入れを拡大しなければならない。実際に産業全体としては高齢化と人口減少のために人手不足になっています。特に3Kと言われる、汚い、危険、きつい、という職場に限られていたわけですが、介護施設の職員の問題、あるいは一般の企業でも実際はかなりの外国人労働者が入ってきている。厚生労働省の2017年の統計では、日本で働く外国人の数は過去最高で、約127万9千人になっている。5年間で約60万人も増えて、日本の就業者全体の約2%に達しているという状況の中で、きちっとした外国人医療ということが整備されていない。

 外国人の受入れは高度な専門的技能の持ち主に限られるというようなことを言っていますが、留学生アルバイト、それから国際貢献を名目とする技能実習生の問題などについては、実際には実習するというよりも搾取の対象にされている事など、様々な問題があります。外国人医療の問題はこれから大きな問題になっていくと思います。そこで港町診療所がやってきた経験は、移住連などの組織の中で、早川さんも呼ばれて経験を述べていますが、国としてしっかり対応すべきです。

学生運動を経て医学部への進学と大学病院の労働組合活動

【早川】 医者になって、すぐ現場に行かれたのですが、どうして医者になろうと思ったのですか?

【天明】 1952年に千葉大学に入学します。実は、私は経済学志望だったのです。ところが少し勉強してみて自分にその資質がないことがすぐにわかりました。私は数字に弱いのです。数字に弱い人が経済学にいくのはどうかと。既にいっぱしの左翼活動家みたいになっていましたが、そのまま左翼の専門活動家になる自信も無かったし。といって一般の会社で、当時は面接で「支持政党は何か」という質問をされましたので、嘘を言うのも嫌だし、どうしようと思っていたら、周りで医学部に進学する人がいた。医者になれば入社試験も無いだろうと。しかし、なりたいと言っても、ある程度、親にお金を出してもらわないといけないので、実は医学部に進学したいがとても国立大学には受かりそうにないので私立大学になるが大丈夫だろうかと親に相談しました。それまでは、出ていったら何日も帰らなかったり、夜遅く帰宅して翌朝もなかなか起きないような暮らしだったものですから、それに一人息子でしたから、親も心配して、医者になるならなんとかするから受けてみろと。

【早川】 当時いろいろ学生運動はあると思いますが、医学部に入る前から活動をやっていたということですか。

【天明】 そうですね。当時はもう共産党に入っていました。千葉のメーデーもかなり荒れていて、私も興奮して秋葉原に来たり、東京では学生がピストルで撃たれたり。これは後に医学連で付き合うことになる医科歯科大の池沢君が足を撃たれました。

【早川】 東邦大学医学部に入ってからはどのような活動をされていたのですか?

【天明】 東邦大学医学部は1955年入学で1959年卒業です。それで医局というのは、今はだいぶ変わってきていますが、内科でも呼吸器内科や心療内科など、科別にグループを作っていました。当時は教授の言うことが絶対で、とてもこういうところではやっていけないと思いました。といって、知っている人はいない。

 それで、ほぼ2年経って、東邦大学病院で組合を作るという動きがある。大木という1年先輩がいて、彼は整形外科に入ったのですが、彼から相談を受けて、じゃあ話に乗ろうということで組合を作る準備をしました。前の晩、10種類ぐらい、それぞれの労働条件があまりに酷いと書いたビラをガリ版で刷って、徹夜しました。時間おきにそれぞれの職場に渡すということをして、東邦大学病院労働組合の設立は成功しました。委員長は整形外科の大木君がなりました。私は病院が終わるとすぐ駆けつけていろいろ、これはこうやるべきだ、みたいなことを。そういう意味では大木君はまったく知識が無かったけれども、組合活動をやりました。

【早川】 何年ぐらい続けたのですか?

【天明】 私が仕切れたのは半年です。そこでブントのグループが入ってきて。私はとにかく組合を潰してしまってはどうしようもない、そんな無理な要求をしてはダメだと言いました。ところがブントの人は、連続して波状的にストライキをすると言う。それに私は反対していました。その時、1961年3月4日に私は結婚しました。1週間、病院の休みを取っていて、新婚旅行に行って帰ってきました。その間に私は弾き出されたわけです。だから、ますます組合は過激路線になっていきました。つまり最終的には病院を潰せみたいな方針になるわけです。それでだんだんついていけなくなって、超過激派の核になった10人ぐらいが最終的には全員解雇ということになるわけです。

 私の結婚式のときは、私の様々な左翼的な話も聞いてくれた桑原章吾さんという細菌医学、微生物学の教授も来てくれて、お前、どうするつもりだ、みたいなことを言われました。私は病院を潰すなんて、職場を失うようなことはやりたくない。だけど、労働条件をいかに改善するかと。そのころは第一内科の森田教授という血液の専門の方で、東大にいたときに悪性貧血の日本の最初の例を発表したという人がいて、彼は団交になると相手側で出てくるわけです。普段は看護師を顎で使っている人ですが、団交で看護師が、こういうことは労働基準法違反だなどとやると、もうオタオタしてダメだったわけです。だから大学当局のほうも医師会に相談して、特別に団交の専門の理事を選任するという形で対抗してきました。実際あの頃のブントは、最終的には病院を潰してもいいというような路線で、それぞれの大学での「大学・職場解体」のような路線でしたね。そうして完全に組合が潰れて、その後50年間組合ができないのですから、彼らの戦略がいかに現実的ではなかったか、今では明らかだと思います。

【早川】 東邦大学病院のストライキに参加した看護師さんで、その後(2006年)お連れ合いが造船で働いてアスベストで亡くなって労災になり、会社と交渉して、企業補償も認めさせたという労災相談がありましたけど、天明先生のことを憶えていましたよ。

山形県での農村医療とチェコスロバキア・イギリスへの滞在

【早川】 東邦大学病院での闘いが終わって山形の農村の医療に取り組まれますが、農民の医療ということは、かなり魅力的な課題だという感じだったのですか。

【天明】 林俊一先生の「農村医学序説」があります。林先生は「嗚呼、軍神林連隊長」という、上海事変の連隊長の息子です。一高で学生運動をやって退学になった。それで転向するようにと、親御さんの関係で辻政信が刑務所に説得に来たと。一応、親の顔も立てて転向して慈恵医大を卒業した人です。彼も大学に残らずにすぐに秋田の農村に行って、「農村医学序説」という本を書いたのですね。それでちょっと調べたら、東京都北区の労働者クラブ生活協同組合付属病院というところの院長をしていたので相談に行きましたら、「ちょうど外科にもう1人欲しいと思っていたところだったので、最新の医学を勉強することはできませんが、医療とは何かということはここで学べると思いますよ」と言われましたので、労働者クラブ病院に勤務することになりました。

 この北区の労働者クラブ病院で、ある時、胃潰瘍の穿孔で患者が来ます。痛いという言葉も方言でよくわかりませんでした。この人は秋田の大曲の出身でしたが、彼とは話す機会がありませんでした。その後、手の挫滅創で入院してきたのは、グループのリーダー格の人で、ガーゼ交換などをして話して、そこで出稼ぎの実態についてかなり話を聞きました。ひとつは、国保の遠隔地被保険者証を持っていれば国保でも使えるのですが、そんなことは知らないから、場合によれば日雇保険者証、土建組合の保険に入る。だから二重がけになっている人たち。それからどこの保険にも入っていない方もいる。また昔は、飯場の居住条件というのはものすごく酷かったのですね。要するに廃屋の中で、潰れそうな家で、トイレは外で、小屋がけのところに穴だけ掘って板があって、その上で用を足すような。これは建設業附属寄宿舎規程というのが新たに出来て、かなり改善されてくるようになりました。

【早川】 1960年代の前半ですか。

【天明】 そうです。だからどういう層の出稼ぎ者の人が、農民が働きに出てくるのか。山形の送り出す地方では、やっぱりどういうことを考えているのだろうかと。これを山形県西置賜郡白鷹町というところの町立病院ですね、これは上山の佐藤藤三郎、彼が「家の光」を通して、出稼ぎの人たちと会って話をしたいというので紹介したことがあります。一緒につれていって話をしたことがあります。

【早川】 「山びこ学校」の。

【天明】 無着成恭さんの「山びこ学校」ですね。彼と友達関係になって、ある時、彼らの知り合いの青年団が東京で身体検査、健康診断をしたいと言っている。仲間の一人が脳梗塞で倒れて、それを機会に健康診断をやりたいと言っているが、先生のところでやってくれないかと。そのころ私は医科歯科大に来ていて、医科歯科大もちょっとした内紛の中で辞めたところだったのですね。それで東邦大学の第一内科で千葉から来た医師に、あなた、ちょっと協力してくれないかといって、健診を教育会館の中でやりました。その時、町長さんと青年団の団長の若者、彼らは苦しくても出稼ぎせずに地元でやっていくと言っていました。検診に加藤周一君というのが来ていて、後に町長さんと加藤周一君から手紙が来たのです。とにかく病院が新しくなってきれいになって、内科、外科、婦人科と設けているけれど外科の医者がいない。あなたは外科だという話を聞いているけれど、来てくれないかと。私は医科歯科大をケンカで辞めて、あちこち、パートの医者で食いつないでいたところだったから、これは良いから行ってみようということで、山形の西置賜郡の白鷹町の町立病院に勤める事にしました。妻にも話しをして子供たちと一緒に引っ越しました。

 一番上の長女が小学4年生、次女が2年生で、息子は保育園。息子は姉たちに馬鹿にされているけれど、保育園に行くのが嫌だと言って中退したのです。決まった時間に昼寝させられて、食べ物を出されるけど、眠たくないのに寝かされるのは嫌だ、行きたくないと。妻も、行きたくないというのを行かせる必要も無いじゃないといって辞めさせたのですね。だから息子はしばらく姉2人から、保育園中退、気の弱いやつと言われていましたね。冬はたまに蔵王に行っただけで、スキーは3人とも上手になりました。

 白鷹町は、精神障害があるとか、どこか身体の悪い人以外はみんな出稼ぎに行く、みたいな雰囲気だった中で、加藤周一君らが頑張っていた。実際に町の中でもいろいろ彼の話を聞くような雰囲気のあるところでした。町長さんもお寺の住職からなった人で、左翼運動に興味関心を持っている人で、いろいろ話しました。代々、町長をする人も、まったくゴリゴリ保守で自治省の言いなりというような町ではなかったです。白鷹町は町村合併を最後まで拒否したところで、嫁不足のために町長が率先してフィリピンと中国に嫁探しに行ったりするような、ちょっと他のところではやらないようなこともやるような人でした。そういうところだったから、私はわりにいろんな仕事を町内でやらせてもらいましたね。「白鷹通信」というのを毎月出して、その後書いた本のタイトルも「白鷹通信」です。

チェコスロバキアとイギリスへ

 白鷹町には3年4ヶ月いました。そして、私の実家の近所に住んでいた国立公衆衛生院の須田先生のところにパートに行ったら、「君、チェコに行ってみませんか」と話がありました。山形県の医者の給料というのはトップ100の下の方ですが入ってしまうのですね。給料をもらってくると、うちの妻はすぐ銀行に預金するのです。10万円ぐらいあれば、野菜などは食べきれないぐらい近所からもらっていましたし、お金も貯まる。だから須田先生の話を聞いて、最初はチェコスロバキアに行くことにしました。

 行ってみたら、英語が通じるのはごく一部の人だけでした。ドイツ支配が長くて、ドイツ・オーストリア圏の国だったので、独立したのは戦後ですから。今はチェコとスロバキアは分かれているけれど、チェコスロバキアは一つの国だった。なのでドイツ語がしゃべれないと、住民との意思疎通が成り立たない。何か背広を引っぱって、お前は何で一人で来るのか、一人で来れば女も紹介する、みたいなこともありました。ここはいたくないなと思って、すぐに須田先生にエアメールで、言葉の問題もあるし、雰囲気にしてもいたくないから、イギリスに行きたいと。そうしたらチャールズ・ロイドという先生を紹介してくれて、ロイドさんの紹介でイギリスのレディング大学に行きます。

 チェコスロバキアを含めて1年いて、戻ってきて白鷹町に行こうとしたら、だいぶ様子が変わっていて。医科歯科大の関係から外科の医者が来ていましたので、その人を追い出してそこに座るというのは、外科の医者が2人いるという規模の病院ではありませんから。そこで山形県川西町というところで外科医を求めているというので川西町立病院へ行きました。

 川西町立病院は3年いましたので、山形県は合計で6年5ヶ月いました。しかし東京の実家で父親が倒れて、お袋だけじゃ介護できない。施設介護という状態ではないので、引き返して海水パンツはいて父親を風呂に入れたりしましたね。たまたま労働科学研究所の小木さん、酒井さん達が川西町立病院に訪ねてきたときに、実は親父が脳卒中で倒れて、近々やっぱり母親だけではとても介護ができないので戻ろうと思う、というようなことを話したら、小木さんからすぐ今井重信さんに話があって、蒲田の駅前の喫茶店で、今井さんともうひとり、近藤さんという、神奈川県勤労者医療生協の設立当時はかなり中心的になった人と会っていろいろと話をしました。私は居場所が無いし、労災職業病とか、そのような仕事ができるようなところであったら勉強にもなるし、港町診療所で働くことを、一も二もなく決めたわけです。

徹底して現場に寄り添う

【早川】 医者は多くの場合、基本的に医局人事で動くではありませんか。その点でいうと、天明先生の場合は、要するに現場に最初から行かれて、常にそういう意味では徹底して現場に寄り添ってきた。

【天明】 卒業してインターンが終わって、大学に残りませんでしたから医局は一切関係無い。私は要するに恩師というのが無いのですね。だけど医者としての生き方をいろいろ学んだのは、国立公衆衛生院の院長をやられた鈴木武夫先生。鈴木先生は東大を卒業して旧制の水戸高校の時代に結核をやられているのですね。そしてあなたは長生きできないよ、などということを言われた。東大を卒業するときに満州事変が起こって、大学の医局に入ると教授の言うことに従わなければならないので、その時に国立公衆衛生院というのがアメリカの財団から寄付で新しく建って、職員を求めているというので、東大では15人が国立公衆衛生院に移ったようですね。そこに行けば自分の好きな研究ができる。だから結核でそんなに長生きできないのであれば、好きな研究をやって終わりたいというようなことを鈴木先生は考えます。その後、スモンの問題に鈴木先生が関わっていて、六価クロムの問題でも、私のそれまでの常識だと、国立研究所の幹部職員の人が、あきらかに労働者の立場に立った論文を書いたりするというのは、あり得ないと思ったのですが、鈴木先生は会社の責任を追及していて、患者になった労働者の労災と救済に力を尽す意見を出してびっくりしました。

【早川】 いま国立公衆衛生院は国立保健医療科学院に名前が変わっています。横須賀の浦賀の退職者のアスベストの健診に関わってくれました。労働組合とか神奈川労災職業病センターもそうですが、学術的なことは全然縁の無かった我々が横浜市民病院の給食調理の心筋梗塞の件で、労働科学研究所の皆さんに来ていただいて、ストップウォッチで動作を全部チェックする調査をしましたね。どういう作業姿勢だとか、冷蔵庫への出入り作業とか。古い横浜市民病院の調理の職場は地下だったんですよ、半地下だったかな。熱がこもって2人が心筋梗塞で倒れて、2人とも公務災害になったのですが、あれがひとつの大きなきっかけになったと我々は考えています。その後、建て替えた時には、地下にあった調理場を一番上階に設けた。労働組合と労災職業病センターと労働科学研究所と港町診療所という取り合わせの中で、できたひとつの職場の改善というのか、変革だったと思います。

 いろいろな生い立ちというか歴史を持った人たちが集まってきて、いろいろな課題、関心を持っていて、それが合わさって多様な活動ができました。天明先生の人脈が非常に大きいのですが、それだけ現場にこだわってきた、先生としての思いはどのあたりにあったのですか。

【天明】 やっぱり自分の進路は自分で考えて決めたいと。大学にいて、年功序列ですから。どういう意味の序列かというと、博士号を取るために、何年、何年という序列があって、だいたい4年から5年は無給で、実際はどこかの病院でアルバイトで稼いで食いつないで博士論文を書く。博士論文も自分の好きなことではなく、受け売りの専門領域の中で好きなものを選べ、という形になっていますから。だから要するに、出稼ぎの仕事をするために、労働者クラブ病院を経て、東京医科歯科大学の農村厚生医学研究施設に移りました。ここは私の妻が勤めていたところで、彼女が教授に私の事を話したら、「うちに来たら」となったのです。私は博士号を取るために行ったわけではないから、そういう意味では、教授も扱いにくいやつだったと思います。

 農村厚生医学研究施設というのは2部門ありまして、食品衛生、食中毒など、これは私の妻が属していたところで、農村医学の関係というのは誰もいなかったのです。教授がひとりで、論文を読んで、解読みたいなことをやっていた。そこに私が入っていったわけです。私に対して命令しようにも、できないみたいな関係であったのです。一介のペーペーでしたが。その頃、いくつか論文を書いていますが、教授の指示、こういうものを書いてくれないかということに対して書きましたが、いくつか教授の名前で出してやったこともあります。記録は全部ありますね。妻は千葉大医学部の生物学を卒業して、農村厚生医学研究施設で腸炎ビブリオによる食中毒の予防の研究などをやっていたわけですが、私が辞めてしまい、彼女までいじめられる。それで彼女も腸炎ビブリオによる食中毒の予防ということで博士号を取ったことを契機にここを辞めました。

医療とは何か

【早川】 そういう先生の生き方が、港町診療所や神奈川労災職業病センターの活動の、非常に貴重なベースになっていると思います。

【天明】 早川さんもそうですからね。東大へ行って卒業しないのですから。小野君にしても、いわゆるマーキング、造船の腰に負担のある作業で。彼なんかと一緒にやってきて、出稼ぎの問題でも、小野君にはずいぶん踏ん張ってもらった。秋田方言がしゃべれるというのは彼の最大の武器だと思うけれど、秋田から働きに来ている人がいても、彼は最初は標準語でしゃべっていた。だから、私がわからなくても後から聞くから、秋田弁で話しなさいよと言ったら、そのうちに彼も方言を使い出した。彼はそこで本気になったと思います。彼自身も、やっぱり自分のライフワーク的な考えでやっていたと思います。彼は夏休みに帰省する時に、それぞれの市町村を回って挨拶して、その次の年の話をしてきた。それから、現地での健診結果の報告会の手配、これは私と斎藤ドクターと茨城の宮田ドクターの3人が交代で行いました。

【早川】 この20年で出稼ぎ人口がどんどん減りました。

【天明】 要するに後継者不足ですね。出稼ぎの人でも、きちっと自分の家の将来を農家として、その土地で暮らしていくために農業をやりたいと。そのために様々な実験をしなければいけないから、冬場では出稼ぎを制限したいと。あるいは農業を続けるためにもう少し田んぼを増やすなどの出稼ぎの目的がはっきりしている人と、何となく冬場の稼ぎのために行くんだというような人と、分かれていました。

 石油のタンクローリー運転手、これはリーダー格の人ですが、彼はもう農業を続けていくことを最初から諦めて、2人の息子をいかに大学を卒業させるかという事が目的だったようです。息子たちが大学を卒業して貿易商社に勤めて、ひとりはインドで、ひとりはフィリピンだと健診の帰りに自慢げに言うから、あなたは夏場に一度、息子さんたちの勤務先に行ってみたら、俺だったら行くけどなと言ってみました。そうしたら、えー、とんでもないって。女房と温泉旅行するぐらいが私たちの身の丈にあったものだなんて言っていましたけれどね。

 はっきり目的を持って出稼ぎに来ていた人と、何となくみんなに引きづられて行く人。貧農でも才覚のある人は、グループのリーダーとして経営者と交渉して労働条件について話をするような人もいて。その人は若いけれども建設会社の社長になり、請負事業を始めてしまうような人もいましたね。様々でした。

 もう私も終活ですよ。86歳ですからね。まだ理事長任期はあるのですが、来年が40年ですから、来年までは勤めて、後は首都圏と秋田、山形を行ったり来たりしながら秋田山形の中における出稼ぎがどんな意味を持っていたのか。あるいは地域包括医療のためにどんなことがそれぞれの地域で必要なのかということも考えてみたいと思いますね。

【早川】 それに出稼ぎの本を完成させないといけないですね。

【天明】 いま本屋が無くなりました。僻地でね。それから合併によって公民館が無くなるところもある。平成の市町村大合併は、本当に自治に対する大きな障害になってしまう。だから、小野君のところの雄物川町なんていうのは、小野君のお兄さんは役所の課長さんで、あるときは出稼ぎ担当もやったことがあったけれども、横手市に合併された中で、雄物川がどうなったかというようなことも、第三者の目で私などが観察した結果をまとめてみたいという感じはあります。どこまでやれるかわからないけれど、だいぶお世話になった、山形や秋田の人たちに対する恩返しだと思います。それも、だんだん危なくなってきた。漢字を忘れるのですね。いちいち辞書を引きながら、名前がぱっと出なかったり。今日しゃべる内容を少しメモしてきて、平野さんの名前が思い出せないのですね。平野敏夫さんの名前が。機関誌を見て、平野敏夫、ああ、平野さんの名前を思い出して、小木さんの名前もね。時間がかかるから、今やらないと終活も怪しくなってきてしまう。

【早川】 山形は、今につながる現場というか原体験の場所になった。先ほどの国際結婚もそうですが、早い段階で外国人の問題にも触れたわけですね。東京で高度な治療は学べるかも知れないが、山形なら、

【天明】 医療とは何か、ということを学べる。

【早川】 天明先生は、常にそこにこだわりながらやってこられた。

【天明】 そうですね。

【早川】 今の若い、次の人たちに、色々な事を伝えて欲しいと思います。

【天明】 聞きたいという人があれば教えるけれど、わざわざ自分から言う気は別に無いですね。例えば、労働者クラブ病院で当直していたときのことです。往診の依頼があったときの事です。その時は入院患者も70ベッドぐらいしかなかった。看護師さんに、往診依頼があったけれどどうしようと言ったら、入院患者は落ち着いているから、先生、行ってらっしゃいよ、と言うので、自転車で行きました。そうしたら、すごい黄疸なのですよ。もう肝臓も触れるし、肝硬変の末期みたいで、どうして放っておいたのですかと言ったら、奥さんは黙って下を向いている。とにかく入院しないとダメだからと言ったら、非常に喜んで入院してきた。

 実は、住んでいたところが、家賃も払えないから立ち退きを要求されていたわけです。子どもが2人で奥さん入れて3人。入院してきて、あの患者の食欲などはどうかと聞くと、流動食といったのに常食でいいと言っています、全部きれいに食べていますと。そんなはずはないだろうと、病室に行ってびっくりしたのは、ベッドの下に3人寝ている。奥さんと小さい子どもが2人。病人は何も食べないと言って点滴だけで、その子たちが食べていたわけです。朝になって院長の林俊一先生に、昨夜こういう方を入院させましたと言うと、えーっ!と驚いているわけです。行政とも相談して適当な施設に入れろと相談していたのに入院しちゃったのと言われました。子どもたちはベッドの下で寝ている。ちょっと襟元を見たら、シラミが並んでいるというような時代でした。昭和30年代の終わりのほうですね。すると、地域の世話役みたいなおばさんが、一通り中古品だけれどもこざっぱりとした服を持ってきて、シラミの付いているものを取り除くというような、まさに医療とは、ただ病気を治せばいいというようなものでは絶対に無いのだと、その背景に様々なものを考えなければならないということを、徹底的にそこでたたき込まれましたね。

【早川】 それはある意味、港町診療所につながっていますね。

【天明】 まあ、気持ちとしてはね。時代も違ってきましたから。貧困層もいるけれども、見かけ上はそれほどでもなくなってきましたから。今は、肝硬変の末期で黄疸で家の中で寝かせている状態はちょっと考えられない。大学にいたのでは永遠にそういう現場を知らずにいられる。開業すれば、開業した所の地域によってはなかなか簡単に行かないような、医療だけでは済まないようなケースにぶつかるのです。

【早川】 そういう思いをどう繋ぐか。沢田先生がいらっしゃいますが、沢田先生だけではなく、全体としてどう繋ぐかというのは、とても大きなことだと思います。

【天明】 そういう意味では、山村医師も外国人医療の問題、入管の収容者の問題もやっておられますが、山村さんのようなお医者さんは、他の医療機関ではなかなか認められないでしょうね。彼の存在も大きいですね。それとお医者さんもそうですけれど、早川さんの存在もすごく大きいと思います。私の心配は、早川さんの後継者はどんな人がなるかということですね。早川さんだって、いつまでもやっていられないわけだから。私はもう漢字が分からなくなったり、人の名前がぱっと思い出せないということがしばしばあって。来年、退職ということを、早川さんには言っています。

【早川】 労住医連(労働者、住民のための労災職業病医療・地域医療制度をめざす医療機関の連絡会議)で一緒に活動している全国の医療機関でもそういう引き継ぎができる所ばかりではないですからね。

【天明】 そうです。労住医連は私たちよりひとつ下の世代なのですね。全共闘世代の人たちですね。彼らは大学に残ろうにも残れなくて、地域病院に移って、そこから地域で医療機関を作ろうというような方たちですからね。でもやっぱり、いくら理想を掲げても、経営が成り立たなければ理想通りのことはできないわけですから、そこで様々苦労をしているのですね。

全港湾の港湾病調査と神奈川労災職業病センターの設立

 神奈川県勤労者医療生協、港町診療所が1979年8月1日に全港湾横浜支部の港町ビルの4階でオープンしました。かなり狭かったのですが、そこに至る前の経過をきちっとお話しておかないと、全体の我々の活動、その後の活動についても、理解がいかないのではないかと思って、それをちょっと申し上げたいと思います。

 1977年に全港湾の中央本部が、全国の支部に向かって、港湾病についての調査をするように指示しました。港湾労働者の方々の労働を原因とするような疾患を総称して港湾病と言っていたわけです。これは単に腰とか膝とか肩といったような運動器疾患ばかりではなく、じん肺、中にはアスベストを扱う労働者もいたわけで、アスベスト肺やアスベスト肺癌の場合はかなり潜伏期間が長いですから、当面、我々の課題ではなかったのですが、そういう問題。それから仕事で力いっぱい踏ん張るために、脱腸、ヘルニアの患者もいました。それから脱肛。そういうような港湾労働者が、労働が原因と考えられるような様々な疾患を港湾病というふうに言ったわけです。

 また港町診療所の設立にどうしても忘れられないのは、神奈川労災職業病センターが1978年1月にスタートしたということです。高度経済成長の中で、日本の資本主義は突然オイルショックなどがあって、不況による企業の倒産とか、いわゆる大合理化時代のスタートだったわけですね。神奈川では川崎のゼネラル石油の四アルキル鉛による慢性中毒の労災認定を巡る労使の闘いが始まっていましたし、一方で、同じ頃、日本鋼管鶴見造船所でも船のブロックの倒壊事故による労災裁判というのがありました。その後、仲間である小野隆くんの腰痛の闘いが進められていきます。小野君の裁判では、労災認定されたのですが、会社側がそもそも小野君の労災を認めない。労災で休業中は法律上解雇できない。しかし、日本鋼管側は強引に解雇してきた。その理屈は、そもそも小野君の労災を認めないということが前提になっています。それは裁判の中では通用しない話です。それにも関わらず、不当解雇をしてきた。小野君の労災事件も含め、神奈川労災職業病センターというものを作ろうという声が上がってきた。

 どういう組織にするかという議論がありましたが、まずは職業病、労災にかかった労働者の駆け込み寺ということを前面に出してスタートしました。神奈川労災職業病センター、それから全港湾横浜支部という2つが大きく動いて、港町診療所、労働者のための診療所を作りました。

 そしてすぐに、その年の12月に横浜の食肉市場に、全国一般神奈川地連全横浜屠場支部という労働組合が結成され、ここから従業員の健康診断をしてもらいたいという依頼が港町診療所にありました。これは全港湾の日雇労働者の時の健診と同じような規模で、医療関係者が集まって、実際に、受診者が62名に対して健診する側は50名という、非常に賑やかな健診になりました。1981年9月には食肉市場の中に保健室がオープンされて、週1回、港町診療所から医師、看護師が出張診療していくようになりました。診療所と職場が密接な所にあるのは医療をする側にとっては非常にありがたいわけで、例えば腰痛なら、その原因となる作業が目の前で確認できるので、労働科学研究所の調査なども入って、作業条件の改善が横浜食肉市場で行われました。

出稼ぎ者のトンネルじん肺問題とジーンワッシャー賞の受賞

 1982年10月、これは私がかねてから気になっていた出稼ぎ農民のじん肺に関して、現地に出かけていって調査をしました。これは秋田県の出稼ぎ組合連合会の栗林次美さん(県会議員で後に大曲市の市長になります)と密接な連絡をとって、栗林さんが市町村出稼ぎ組合に働きかけ、同時に自治体も動かして、まず、じん肺に関して出稼ぎ者のアンケート調査を行う。少なくとも実質5年以上の粉じん作業歴のある出稼ぎ者を対象にしました。132人のアンケート調査になったわけですが、なかでも相当所見がありそうだという32人を選んで健診をしました。うち6人が、これは私もフィルムを見てびっくりするぐらい肺全野にわたってツブツブがいっぱい。じん肺の中でも明らかな珪肺ですね。これは6名全員が隧道工事、トンネル工事の切端の先端にいて、崩れた石などをズリ出す作業などされていた。51歳が2名、50歳の方が1名、49歳1名、48歳1名、46歳1名という6名の方で、隧道工事に7年から26年従事したという人たちでした。

 当然、労災申請になるわけですが、栗林次美さんが奔走してそれぞれの就労歴を作成し、私の方で肺の所見に関して意見を書いて労災申請をした。これはもう明らかな珪肺でありまして、6名全員が労災認定されました。その後10人近くが港町診療所に受診して頂きますが、その交通費は出稼ぎ組合連合会が負担することになりました。

 私ごとですが、2年後の1984年9月にニュージーランドで開かれた国際農村医学会の中で、この事例の調査結果、労災認定の報告をしてジーンワッシャー賞をいただきました。これもありまして1987年1月から、首都圏における出稼ぎ労働者の健診を小野君と一緒に再開しました。「首都圏出稼ぎ者健康管理ネットワーク」という名称で、小野君が事務局になって、我々の関係している医師10名ほどが参加して、出稼ぎ健診を再開しました。しかし東北からの出稼ぎは年々減少して、2010年の健診を最後に終わりました。

給食調理員の指曲がり症の調査

 それから指曲がり症の問題に入ってみたいと思います。私は1991年から2009年まで川崎市教育委員会学校給食支部の産業医をいたしました。もっと正確に申し上げますと、労働科学研究所の川崎給食支部の産業保険チームの一員として加わっていたということです。ヨーロッパでは既に職場での産業保健の問題について、医者だけがやるという時代ではなくなっていまして、産業看護師、セーフティエンジニア、さらに心理学、精神科の研究者グループも加わるべきだという提案があるという時代でした。

 そういう意味では、私は労働科学研究所の学校給食への産業保健スタッフの1人であったことが、後々の仕事においても非常に勉強になりました。私の担当は指曲がり症と腰痛、これの現状とその対策をどう立てるかということにあったわけです。実際には当時の川崎市の給食調理員の全員の指を、私は3回以上触っているので、現状報告ができるわけです。それをどう予防するかに関して、労働科学研究所のチームで、いろいろな医者に対して提案しました。最近ではかなり指曲がり症も減少しているという状況です。給食調理に関する全体の産業衛生的な対策に対しては、労働科学研究所のスタッフが主に活躍したわけですが、指曲がり症に関しては、臨床的にも健診的にも、港町診療所で全部引き受けてきた。神奈川県自治労や小田原市からの依頼があって、港町で健診活動を進めてきました。

 その後、外国人の健康診断を行政とも関わってやるようになりました。当初はエイズが大きな問題となりましたが、エイズよりも実際は結核の問題がクローズアップしてくる。これについての私たち港町診療所の貢献度は大きかったと思います。それから外国人に関しては通訳体制ですね。これも皆さんのご協力でかなりしっかり作って、ここ港町診療所2階で月1回、通訳の方々が様々な意見交換をして、より医療に貢献できるような活動を続けてきました。そして2005年12月22日、露木喜一郎理事長がお亡くなりになり、後任の理事長には私がなり、沢田貴志さんが港町診療所の所長になってくださいました。

労災職業病に関する医師意見書の作成

 2000年中頃から、私は労災職業病に関する医師意見書を依頼されることが多くなりました。最初の事例は、神奈川県教育委員会の主事をやっておられた秋元さん、当時51歳だった方の過労自殺の事案に関してです。私の意見書だけで通ったわけではないと思いますが、秋元さんのお仕事自体の過重性も認められて労災認定されました。その次が横浜市消防職員の出縄さん、当時44歳。この方が勤務中に喘息発作で亡くなるという事案が起こりました。私はその意見書を担当しましたが、喘息による自然死だという当局側の指示で不認定とされたのですが、出縄さんの日常活動の状態を詳細に調査した結果、不認定が逆転し公務災害死として認められました。出縄さんの勤務の酷さを同僚の組合員の方が詳細に報告して下さり、弁護士は野村和造先生が就かれ、3年半にわたる長い闘いの結果、逆転勝利となりました。

 そして中村さん。神奈川県茅ヶ崎市の方でスーパーでカップ麺5個とチョコレート1個を万引きした。組合の活動家であり課長さんでした。自治労の活動家でもあったので、当時の市長はそんな破廉恥なということで即刻、懲戒免職処分になりました。しかし、調べてみると、認知症のピック病を患っておられたのです。ピック病は進行すると万引きすることもあると専門書に書いてあります。私はそれで医師意見書を書きました。これも野村弁護士はじめ神奈川総合法律事務所の弁護士3人が加わって当局と交渉をして懲戒免職を取り消した。早期に病気がわかりましたから中村さんは正式に退職されましたが、これも私にとって非常に勉強になりました。労働争議のオール神奈川のチームで力を合わせた活動として忘れられない経験をさせて頂きました。

 その他には、神奈川県内ばかりでなく、愛媛県や沖縄県の労災事案にも関わりました。沖縄の医師の方々は戦後の米軍統治下時代が続き、日本の労災保険が十分わかっていないということもありました。ひとつ残念なのは、島根県の小学校の教員で47歳の方。この方は自宅で脳出血で死亡されたのですが、私が意見書を書きました。ところが相手は島根大学の医学部の脳神経科の教授で、彼は私の意見書に対して名指しで反論をしてきました。こちらもかなり調べて反論を書いたのですが、最終的には広島高裁で敗れました。労災認定されず、自然死とされてしまい、これは非常に残念な例だったと思います。

 その他にも、神奈川労災職業病センターのスタッフと一緒にやってきたことは数々あります。ひとつは労災保険による鍼灸診療の問題に関してです。これも患者さん2人で裁判を起こして、斎藤医師などが頑張り、鍼灸の診療制限を撤廃させたということもありました。

アスベスト関連疾患に対する取り組み

 じん肺とは何か。じん肺というのは治らないのですね。治らないばかりか進行します。じん肺の治療は全部、対症療法です。だからこそ、きちっと事業者側に予防させるということを軸に、私たちがやってきたこと、これからどういうことが必要なのかをお話しします。

 最初は簡単に「じん肺とは」ということをお話しします。肺というのは、ご存じのように両側に2つあるわけですが、これは吸い込んだ粉塵などをある程度排出する洗浄能力があるわけですね。しかし、肺の洗浄能力以上の粉塵を吸い込んでしまった場合は、そこに定着して様々な障害を起こす。それがじん肺になるわけです。じん肺は治療法も無いし、だんだん進行する。特に我々が問題にしている石綿肺の場合は、発がん性があるという点で、非常に予防が重要になります。

 まず珪肺です。これは遊離珪酸をたくさん含んだ鉱山やトンネルの粉じんが原因です。私が最初にぶつかったのは、トンネル工事に従事した出稼ぎ者の珪肺でした。レントゲン写真を見ると、アスベスト肺とはかなり違った陰影を示すのですが、最終的には肺の機能を荒廃させていくという点では、アスベスト肺と同じです。その他、炭鉱夫じん肺、あるいは溶接工じん肺ですね。いろいろありますが、一番重要なのは珪肺。数が多いのは珪肺と石綿肺ということになると思います。読み方として石綿じん肺という言い方がありますが、石綿肺、アスベスト肺と同じ意味ですね。

 そしてアスベストについては、主に蛇紋石綿、クリソタイル。アモサイト、クロシドライト、まだいろいろ種類がありますが、主要に市場で使われているのはこの3つ。一番毒性が強いのはクロシドライトですが、実際には3つが混ざって使われている場合もあります。

 実は、私は20数年前に北海道の石綿鉱山に見学に行ったことがあります。もちろんもう閉山しています。空知地方の山部村という、札幌からそれほど遠くはない所で、今は富良野市の中にあります。東京大学の演習林の中にある野沢鉱山という石綿鉱山です。1941年から開いていて、一時は年間8000トンも出した。ところが岩石の中の石綿含有率が0・16%で、カナダの会社から採掘企業を依頼したと聞いています。そこは事務所が残っていて、事務所へ行くと、事務所の前に大きな岩石があります。その石の間に石綿の層がいくつかある。その石を砕いて石綿を取り出します。1つの岩石から0・16%ですからなかなか大変です。この野沢鉱山は本社が神戸にある会社ですが、実際には早々と閉山し輸入のアスベストに頼るという会社でした。

 そのとき富良野市で生活しておられた人に聞くと、富良野には夏も雪が降ったという話がある。洗濯物の上に白い石綿の繊維がかぶっていて夏の雪だという話をされていました。石綿による健康障害が出ているのではないかと北海道大学の衛生の教授が調査したことがあると論文で読みましたが、実際に富良野市に行きいろいろ話を聞いてみると口が堅いですね。なぜかというと、トニー・ザイラー・コースという本格的なスキーを造成した後で、そんなところでアスベストがあって有害だみたいなことで騒がれては困るということで口が堅かったのです。今は一体どうなっているのか。距離も離れているし、本当にどうかわからないのですが、日本にも石綿鉱山があったということです。

 従って、石綿というのはアスベストの和訳ではないのですね。むしろアスベストは商品名であって、戦前から大阪の泉南地区では石綿製品製造の歴史があって、石綿という言葉で、石の中に挟まっている綿状の鉱物ということになると思います。大阪の泉南地区、全国で一番のアスベスト産業の集積地では100年以上にわたって原料の石綿から石綿糸を作る、一時加工品の製造が中心で、実際には5人から10人ぐらいの零細企業が最盛期は200位あったということです。そういう小規模の事業所ですから、労働環境も劣悪で、工場内はむろん、工場の外まで石綿で真っ白だったという状態でした。ですから、泉南地区では石綿肺というのは当然、戦前からあって、多くは零細企業に勤めている人たちの健康被害が、周辺の住民の方々の問題もあったと思うのですが、一部の専門家の間では問題になっていたということです。

 神奈川でも県立高校の吹付アスベストの問題がありました。これはセメントの中にアスベストを混ぜ込んで、それに水を加えて壁などに吹き付けるということで、割に安直に防火壁になるわけですが、劣化が早く、ぼろぼろ落ちやすいという欠点があり、真っ先に我々の交渉課題になり、県などに対処を迫りました。アスベストはほとんどの建築物に使用され、それ自体としては頑丈ですし、耐熱材、アスベストは熱に非常に強いという意味で、耐熱材、それから耐震性などのために使われてきています。建築物材料がアスベスト製品の7割になりますが、自動車のブレーキやクラッチのところにもアスベストが使われていて、これは高速道路周辺のアスベスト粉塵が問題になっています。

横須賀の造船労働者に起きたアスベスト被害

 アスベストの大きな問題は発がん性があることです。肺がんもアスベストが原因で発病しますし、胸膜中皮腫や腹膜中皮腫など中皮腫は非常に悪性度が強い。石綿肺、アスベスト肺に合併した肺がんも、がんそのものばかりでなく周囲の肺もやられているため非常に予後が悪い。治療効果が上がらないことが大きな問題点です。また、潜伏期間も問題です。悪性中皮腫は「静かなる時限爆弾」と言われ、40年の潜伏期間です。早期発見しても早期治療で全快するとことは考えられない。他のところに沈着している粉塵やアスベストによって肺自体の機能が徐々に奪われていくという運命にある。それ故に、いかに予防が重要かということになります。

 私ども神奈川県勤労者医療生協は、造船労働者の方々にも多くの出資金を出していただいて発足しました。造船とアスベストの関係は前から我々も知っていましたし、いつかこの問題とぶつかる必要があると、初めから考えてきたわけです。

 1982年5月に横須賀共済病院の三浦先生が発表した論文が読売新聞に掲載されました。過去5年間に共済病院で見つかった肺がんで死亡した人の3分の1の原因が石綿であると発表したのです。しかもその大部分が40年近くも前にアスベストをかなり吸っていた。職歴は造船業と横須賀米軍基地にあるということを発表しました。我々も直ちに浦賀の造船労働者の退職者の会の方たちといろいろ話をしました。ちょうどこの年に港町診療所は金港町へ引っ越して本格的な診療活動を再スタートするという意気込みもあり、このアスベスト疾患の問題は港町診療所が取り組むべき重要な問題であるという認識があり、様々な準備を進めてきたわけです。造船労働者の健康調査として、1984年から毎年、退職者の会の定期総会時にレントゲン車を用意し、健診を始めました。浦賀の退職者の会のグループは少数組合ですが、彼らと相談しながら、調査もしながら健診を行いました。毎年150人から160人位を診て、30人近い方々の石綿肺の管理区分に該当する患者を発見して労災申請をするように様々な努力を始めました。

田尻宗昭さんの米海軍ミッドウェイ石綿問題

 そうこうしているうちに1986年の春、米海軍ミッドウェイが浦賀ドックに入港して大改修をするという事がきっかけで、アスベスト問題が大きく広がりました。航空母艦の上甲板は艦載機が発進するときにバックファイアで高熱を発するので相当厚いアスベストが使われているということは知られておりましたので、私たちは厳重な警戒態勢をとりました。前年に東京都から来た田尻宗昭さんが神奈川労災職業病センター所長となっていたので、彼の指揮の下にアスベスト調査班を作りました。飛行甲板に主要に使われている、もちろん船内でも様々な所で断熱目的でアスベストが使われているということでアスベスト廃棄物がどこに行くのかと調査班を作って調べていくうちに、横須賀の公道に無責任にも、赤い袋に入れられてアスベストが捨てられていたことが分かりました。どうこれを周知させていくか。田尻さんの働きかけで、東京の朝日新聞の一面トップにこの問題が掲載されました。国会でも問題にされ、社会党の岩垂議員が追及して、日本政府ならびにアメリカ海軍に対する抗議をする。そのことでアスベストの問題がローカルなところから全国的に広がっていく契機になりました。

 それから1990年4月に全国労働安全衛生センターとアスベストホットラインという相談電話の取り組みをしました。その時、神奈川県厚木市の日本バルカーというアスベスト会社の労働者から相談があって、これは斎藤医師の出番ということで、最初に2人の方の中皮腫を診断して、以後ずっと定期健診をやってきました。

 それから、学術的には1987年に奈良医大の車谷先生と横須賀の最前線で活動していた名取雄司医師が文部省の科学研究費をもらって、石綿の危険性と基地労働者ばかりではなく、造船労働者についても健康被害が広がっているという学術論文を発表しました。一般向けの図書としては『基地の街からの警告』と題する出版物も出て、これらを契機にアスベストが全国的に問題になるということになります。

 実際に港町診療所で、港湾で働いていた労働者のアスベスト肺から肺がんになった症例が見つかったのは1994年8月です。すぐに済生会神奈川県病院に入院しましたが、最初は石綿肺がんという診断ではなかったのです。お話を聞くと、肩作業という石綿の袋詰めのところに手カギを刺して担ぐ作業もされていてアスベストばく露作業でした。原因がはっきりしない肺がんで、恐らく石綿を原因とする肺がんではないかという疑いをもち、もう少し詳しい病理検査の必要があると考えました。そこで、マウントサイナイというニューヨークにあるアスベスト研究センターで精密な病理検査をしたいと鈴木康之亮先生にお願いしたら、ニコニコして、どうぞお使い下さいと言われました。ニューヨークに送るとしばらくして、アスベスト小体が見つかったという返事がきました。鉄とタンパク質の部分がアスベスト繊維を覆っている状態をアスベスト小体というわけですが、それが大量に見つかったということで、彼の場合は労災が認められました。

企業・政府・米国の責任追及と石綿使用禁止へ

 特に私たちが重視したのは、企業、政府、米国の責任の追及と、アスベスト使用禁止を目的とした裁判です。これはアスベスト企業の責任追及と同時に、日本政府と米軍が責任を持っている基地の作業場でアスベスト被害が発生したということです。普通の職業病と違って、アスベスト肺は治りません。その上進行して、発がん性もある。だからいかに予防が大切か。ともかく吸わないことが大切で、その意味で、それぞれの裁判で企業責任を追及し、現場でのアスベスト対策を政府や企業に取らせる手段として裁判は有効だったと思います。住友重機械工業の造船所に対する損害賠償裁判や、米国と日本政府を相手とした損害賠償裁判を行いました。米海軍基地における現役従業員の中で初めて中皮腫を見つけた方の裁判も行いました。住友裁判では、退職後に発生したアスベストじん肺被害に対する補償制度を作らせました。そのレールを敷いたのは、この裁判だったと思います。

 しかし、我々はもう一歩さらに進んで、どう予防するかについても裁判を通じて世の中に知ってもらいたい。実際には様々な安全衛生法の中で扱われていますが、粉じん障害防止規則では「事業者は、粉じんにさらされる労働者の健康障害を防止するため、設備、作業工程又は作業方法の改善、作業環境の整備等必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とあります。特に石綿肺の場合、特定化学物質等障害予防規則でさらに厳重な予防措置をとるよう決められているにもかかわらず、こういう事態が起こったことを裁判で追求しました。完全に予防できないのであれば、最終的にはアスベストは使ってはいけない、アスベスト禁止の方向を、裁判の中から我々は指向しなければならないと考えながら活動を進めてきました。ともかく、横須賀のミッドウェイを機会に我々の活動が全国的に影響を及ぼし、裁判に関しても多くのアスベスト関連企業からの注目が出てきました。

「クボタ・ショック」とエーアンドエーマテリアル住民被害

 中皮腫は珍しい疾患ですが、尼崎市のクボタの周辺住民に起きたアスベスト被害がクローズアップされ、「クボタショック」として、2005年に初めてアスベスト工場の周辺住民のアスベスト被害問題が大きく広がりました。そしてこの問題を契機にアスベスト救済法ができました。これは実際に扱っている工場内の労働者のアスベスト被害ではなく、労働者以外のアスベスト被害者、工場周辺に住んでいて吸引したとか、家庭内の吸引あるいは自営業者などのアスベスト被害者を救済するための法律です。この救済法で認定されたデータを見ると、2006年から2007年までに認定された人は3351人。うち、どこで石綿を吸引したかわからない、石綿工場の近くに住んでいた方は1047人(うち中皮腫1032人)で、一番多かったのは尼崎市です。工場の外の周辺住民です。大阪の泉南で58人。横浜は27人。これは横浜市鶴見区にあった、今はエーアンドエーマテリアルという工場の周辺の人たちです。

 エーアンドエーマテリアルについては、夫が中皮腫で亡くなった方がアスベスト関連のテレビ番組を見て神奈川労災職業病センターに相談に来られました。夫は独身時代にずっとエーアンドエーマテリアルの工場近くに住んでいたとのこと。その工場は移転し、いま跡地に団地が建っています。周辺住民のアスベスト被害問題に関して、神奈川労災職業病センターの西田さんを中心として、横浜市やエーアンドエーマテリアルと交渉を重ねました。そして、定期的な健康診断を無料で受けさせる、CTが必要なときはエーアンドエーマテリアルが金銭的に補償するなどの制度を作らせました。また工場周辺住民に対する啓発活動も行い、アスベスト肺とは何か、悪性中皮腫というがんの一種で手強い病気があるというような講演も行いました。

世界アスベスト東京会議の開催とアスベスト患者会の設立

 我々の活動はどんどん全国に広がり、2004年に世界アスベスト東京会議を開き、私が組織委員会の委員長を務めました。アスベスト問題に取り組む方々が世界各国から183人集まりました。発展途上国の場合は政府関連の研究施設からも参加があり、一挙に我々の活動が世界と結びつく契機になりました。世界アスベスト事務局のローリー・カザンアレンや、アメリカの有名な、じん肺特にアスベスト肺の専門ジャーナリストのバリー・キャッスルマンも参加しました。その3年後にはアスベスト問題に関する日韓共同シンポジウムをソウルで開催しました。さらにアジアにおけるアスベスト禁止をどうするか、韓国が呼びかけて、香港をキーステーションとする労働安全衛生の民間活動機関に声をかけてソウルに集まり、アジアでのアスベスト問題に関して議論しました。また、2007年11月23~24日にパシフィコ横浜で世界アスベスト会議を再度開催し、2004年から3年間で事態がどう進んだか等を議論しました。2009年には香港で開催し、神奈川労災職業病センターの川本さんが英語の論文を発表し、造船と基地の労働者のアスベスト被害の問題に関して問題提起を行いました。

 私たちの活動と関連した団体として「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」があります。常勤スタッフを抱える活動団体として、今や全国でしっかりした活動を積み重ねています。それから「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」。これも全国各地に支部が作られました。神奈川の場合は、神奈川労災職業病センターの鈴木さんが神奈川支部の事務局としてあちこちの地方に行って活動をしています。

 石綿専門の医師もいらっしゃって、彼らの仕事からも我々は多くを学んでいますが、残念ながら、彼らも石綿肺や中皮腫を治せるのではなくて、診断において専門だという点で、専門医といっても治せない。これは彼らにとって非常に残念なことであると考えます。従って、私たちの様々な裁判闘争あるいは啓発的な活動に関しても、その医師たちは比較的気楽に協力してくださるという関係ができています。ですからアスベスト廃絶のために、神奈川県内ばかりではなく、全国的にもさらに運動を進めていかなければならないだろうと思っています。