石綿被害の現状 今、被害者は何を求めているのか?

石綿被害の現状 今、被害者は何を求めているのか?
古川和子さん 「中皮腫・アスベスト疾患患者と家族の会」
本日は、私の知っている限りの石綿被害の状況と、今、被害者の方たちは何を求めているのかについてお話しさせていただきたいと思います。
「クボタショック」が日本列島を駆け巡り、石綿公害はある日突然起こったように言われますが、実は、それまでにも至る所で被害者や家族が声をあげていました。〇三年二月には患者と家族の会の前身となる「アスベスト被災者・家族の集い」が東京で開催され、〇四年二月七日に「中皮種アスベスト疾患患者と家族の会」が作られました。私は同年一〇月に、あるマスコミの方の紹介で環境曝露の患者さんと出会いました。「クボタショック」の原点となった故土井雅子さんです。一一月に早稲田大学で行われた世界アスベスト会議を契機にマスコミが石綿問題に注目を始め、その結果クボタ周辺の患者さんやその他多くの方との出会いがありました。そして〇五年六月に「クボタショック」が発生しました。七月にはニチアスやエーアンドエーマテリアルなど多くの企業が自社の労働者に労災被害者がいることを発表して、周辺住民被害者の存在も発覚しました。そして私たちは患者と家族の会の全国的な支部作りを開始しました。最初は横須賀、関東、関西の三支部でしたが、今は一一支部あります。更に、この鶴見や岐阜羽島、奈良、河内長野、泉南、尼崎など環境被害の六地域で「住民被害者ネットワーク」を作り、六月に環境省に申入れを行いました。
「クボタショック」の残したものは住民被害者等の救済制度等です。〇六年三月二七日に石綿救済法ができました。その内容は、闘病中の方には医療費の自己負担分免除と療養手当一〇万円、遺族には約三〇〇万の弔慰金、時効労災の方には月二〇万の遺族年金を支給するというものです。しかし本当にこれでいいのかということが今、問われています。

被害者との出会い
かつて土井さんは、尼崎で夫とたこ焼き屋を営んでいました。アスベスト曝露はなかったのに胸膜中皮腫になり、左肺摘出手術を受けました。なぜこんな病気になったのか知りたいという相談が、ドキュメンタリー工房という朝日放送の下請け会社から寄せられ、私は手術直後の土井さんを訪ねました。そして、生まれた場所や通った学校も調べましたがアスベストはありません。以前勤めていた日本食堂では新幹線の車内販売をしていたのでアスベストとは関係がないです。土井さんの夫はその時、新幹線の食堂車のコックさんだったそうです。私は食堂車に石綿があったのかなと思いましたが、新幹線は揺れるためガス等は使わず、電子レンジで温めるのが基本だったそうで、ここにもアスベストはありません。おかしいなといろいろと聞き回っていたら、クボタが浮かんできました。
前田恵子さんはガソリンスタンド経営の女性実業家でした。やはり中皮腫にかかり、兵庫医大で治療中、「住まいがクボタから近くないですか」と医者から聞かれ、驚いたそうです。そこで前田さんは「クボタが原因だ」と思いましたが、大企業相手に一人で裁判しても勝ち目がない、泣き寝入りするしかないと思っていたところに、私たちと出会いました。これで周辺の中皮腫患者が二人になりました。
前田さんの家から二〇〇m先に早川さんが住んでいました。彼は大学を出て証券会社で働いた後、家業の酒屋を継いでいる時に病気になりました。彼も全くアスベストに覚えがないのです。これでクボタ周辺の患者が三人確認できました。やっぱり原因はクボタだ、一回クボタに聞いてみようということで、クボタとの交渉が始まりました。この写真は「クボタショック」の約一ヶ月前のものです。三人が並んで写真を撮ったのは、後にも先にもこれ一枚です。それ以後、取材も忙しくなり写真は多いのですが、皆バラバラです。

クボタの補償制度
「クボタショック」後、新聞をみて驚きました。周辺被害者は三人(この時、既に死亡された相談者の中にもクボタ被害者の可能性のある方を含むと五人)だと思っていたのが、八月二五日の新聞で「住民被害さらに二一人」「一八人既に死亡」と出ていました。その記事の中で号泣されているのが玉井さんです。彼は尼崎信用金庫にお勤めで、阪神タイガースが優勝した時に「タイガース預金」を考案した方です。クボタが原因だと知って、六年間の闘病中の苦しみと悔しさをぶつける様に記者会見で号泣されました。またこちらの方は、妻と妻の弟が中皮腫になり、無念の思いを語っている記者会見です。
このように被害はどんどん広がり、全国的に繋がっていきました。そして、すべてのアスベスト被害者の救済に向け、百万人署名がスタートしました。翌年一月末には一八〇万余筆が集まり、署名達成の国民決起集会が日比谷公会堂で行われました。そして、その足でデモ行進。二三〇〇人の大きな怒りのシュプレヒコールが国会前を行進しました。
「クボタショック」の年の一二月二五日、社長の謝罪会見が行われました。約八〇名の被害者を前に社長は深々と頭を下げ、「塀の内と外の救済に差別はつけない」と確約しました。クボタの社員で労災認定された方には(年齢や在職中か否かで差はありますが)上積み補償が約三〇〇〇万円と聞きましたが、住民被害者には労災補償がありません。その後設立された救済制度では「塀の内と外を一緒にする」と言った社長の言葉通り、労災補償部分を考慮して、最高で四六〇〇万円ということになりました。これは、年齢や状況(主たる生計者か被扶養者か等)を考慮し、公害健康補償法をベースに決めました。それが二五〇〇万~四六〇〇万円に区分けされました。実際は、クボタは最初の段階で見舞金及び弔慰金二〇〇万を払っていたので、最高額は四八〇〇万円です。

大阪の被害事例
大阪は石綿工場がたくさんあり、中皮腫発症数が多い所です。主な石綿工場とその周辺で被害が確認されている所を紹介します。
大阪の北区中津という地域にはかつて大阪石綿があり、昭和二〇年に空襲をうけて工場が焼け、その後浅野スレートになりました。今わかっているだけで一人の中皮腫患者が工場から三〇〇m圏内にいます。その方は原因不明といわれていますが、私は浅野スレートが原因ではないかと思います。大阪石綿には、漫画家の手塚治虫が学徒動員で行ってスレートを作っていたそうです。彼の同窓会のホームページには「大阪石綿に動員された同級生は、今にして思えば、石綿の害で若くして肺がんで死んだ者もいた」とあります。実は、昨年一一月に手塚さんの同級生に会ってお話を伺いました。話によると、後年、結核の痕のようなものが見つかった人が多いということでした。それは胸膜プラークではないかと思いますが、まだ調査していません。学徒動員の作業は、まず、石綿の入った五〇~六〇㎏の麻袋を中二階まで担いで上がり保管したそうです。手塚さんは小柄だったので麻袋を担がなくて、生産ラインにいたそうです。
このすぐ南の福島区には日本アスベスト(現在はニチアス)が最初に作った工場がありました。その南、西成区には万年スレートという工場がありました。この工場の周辺では女性患者が多く確認されており、「患者と家族の会」会員さんも複数いますが、工場は既に閉鎖されていて損害賠償を求める企業はありません。この少し東、平野区にも石綿スレート工場があり、近隣で女性のプラークの方がいます。西成区の南、堺市では東洋絶縁という竜田工業の前身の会社がありました。ニチアスと竜田の二社は、昭和一二年と一八年にそれぞれ奈良の王寺町と斑鳩町に引っ越しました。竜田工業は、日本が青石綿を禁止すると同時に韓国の釜山に青石綿を持っていって操業しました。
堺市には石綿が入っていた麻袋を再生する業者が多くあり、女性の中皮腫患者が出ています。堺市から東南方面の河内長野市には東洋石綿があり、海軍の軍艦や潜水艦に使う断熱材を作っていたそうです。堺市の南に行くと泉南・阪南市の被害地域があります。被害者の高齢化とともに調査も難航していますが、本当はもっと調査しなくてはいけないと思っています。
石綿袋再生工場の被害
OSさん(五七歳女性)は麻袋再生工場の近隣被害者で、発病されて一〇年です。〇九年三月の集会・デモ行進の時、彼女は歩けないけれども先導車にのって行進しました。同じく再生工場近隣に住むKMさん(五〇歳女性)は四九歳で発病しました。集会では、KMさんをはじめ患者たちのビデオメッセージを流しました。それを数ヶ国語に翻訳して世界各地に送りました。
石綿が入っていた袋は麻からPPに替わりましたが、空になった袋をどうしたのかということは大きな問題だと思います。調べると、KMさんが被害にあった麻袋の会社はクボタから入札していたと聞きました。OSさんが被害にあった工場に関して、法務局で謄本を取って役員の住所を調べ、新聞記者の方と行って話を聞きましたら大阪で麻袋の再生業者が一〇〇はあったそうです。では、その近隣住民はどうなっているのだろうと思いました。その工場の麻袋がどこから来ていたかは調査中ですが、クボタではないという証言は得ています。

緘口令を布くニチアス
奈良の主な石綿企業はニチアスと竜田工業です。その周辺に中皮腫、胸膜プラークの人が多発しています。二社の距離は約一㎞余りですが、ここに大きな意味があります。二社はそれぞれ「わが社の被害にあわれて中皮腫になられた方」に対し救済金を出していますが、ニチアスは一五〇〇~三〇〇〇万円、竜田は一〇〇〇~二〇〇〇万円です。また、どちらも救済対象者を四〇〇m圏内に限っています。クボタのように一・五㎞圏内だと二社の救済範囲がぶつかるからです。ですから、ギリギリの所の方は竜田の被害者かニチアスの被害者かで救済金額が違うというおかしなことになっています。竜田工業はニチアスの子会社ですから「企業の体力」という理由で金額に差が出ているようです。
ニチアスの羽島工場(岐阜)のすぐ横には市民病院があり、中皮腫になった元看護師もいます。一〇月一四日付毎日新聞によると、この工場に隣接する工場では、従業員の二五%が胸膜に影がでています。
これだけ多くのニチアス被害者がいるのに、被害者はなぜ声を出さないかというのも疑問のひとつでした。実はニチアスは救済金の手続きの際、被害者に金額はもちろん交渉の存在さえ絶対に口外してはいけないと一筆書かせます。また、元従業員の方から聞いた話では、社員が退職する時、健康管理区分の管理2以上の方にはいくらかの上乗せがあるそうです。それさえも口外してはいけないと徹底した緘口令が布かれています。そのため、ニチアスの被害は表面化しません。これは、道義的に大きな問題だと思います。
山下亨則さん(五七歳)は、ニチアス王寺工場から六〇〇mの場所で生まれ三〇年間暮らしました。彼は胸膜中皮腫で片肺切除し、現在、放射線と抗がん剤治療中です。今後、山下さんのようなケースに対してニチアスはどの様な対応をするのでしょうか。

公害輸出した竜田工業
竜田工業は一九七一年に青石綿の危険性が分かった途端、工場の生産ラインを全部たたみ韓国の釜山に第一化学という合弁会社を作りました。釜山の工場には技術指導者を送り、「作った商品を日本に向けて輸出していた(第一化学元労働者談)」そうです。まさに公害輸出です。昨年一月に第一化学の元労働者たちが釜山で初めて集まりを持ち、被害者の会を作りました。その時の話で象徴的だったのが、当時日本から来た技術指導者は宇宙服のようなものを着ていたという事です。石綿の危険性を知っていたから防護服を着ていたのでしょう。現地の方は何も防護なしで働きました。
第一化学のそばに住んでいたウォンさんのお父さんは中皮腫で亡くなりました。ウォンさんは近隣住民として、第一化学・現地ニチアス・韓国政府の三者を提訴し、今まで三回公判が行われました。私はその度傍聴に行っています。今年五月には、ウォンさんが奈良支部の集会に参加してくれました。集会後は精力的にアピールして回り、最後に尼崎で一緒にカラオケを歌いました。こういったパワーがあるから頑張れるのだと思います。

泉南地域の被害
大阪の泉南地域の被害者たちは「クボタショック」の翌年に集団提訴しました。泉南には小さな町工場がたくさんあり、被害者が経営者でもあるという状況です。裁判は一一月一一日に結審し、来年五月一九日に判決の予定です。この裁判は今後の石綿問題に関する国の責任を大きく左右する裁判だと思います。
〇九年一〇月には三〇〇人規模の集会が行われました。皆、最後の結審に向かって決意を新たにしました。
原告の一人、岡田陽子さんの両親は石綿工場で働いている時に、幼い陽子さんを工場に連れて行きました。いつも頭が石綿の埃で真っ白になるのを可哀そうに思ったお母さんが帽子をかぶせていたそうです。でも「今考えたら帽子は何の役にも立たなかった」とお母さんが語っておられました。今、陽子さんは原告として頑張っていますが、石綿肺の症状がだんだん重くなっています。〇六年一一月に写真を撮った時は笑顔でしたが、一年後には酸素吸入なしでは生活できない状況になりました。
大阪の河内長野市の住民被害者たちは、日本で初めて五者共同の調査チームを作りました。住民と河内長野市、市議会、研究者(奈良県立医大の車谷氏、府立公衆衛生研究所の熊谷氏他)、支援団体(患者と家族の会と関西労働者安全センター)の五者です。当初、市はなかなか動きませんでしたが、皆の熱意でやっと調査チームを作ることに成功し、肺がんのリスク調査を行いました。その結果は一一月二九日に市民に報告する予定です。
曝露形態の広がり
多くの事例から、被害者の拡大と共に曝露形態の広がりもわかってきました。当初、アスベスト被害はすべて労災だと思われていました。しかし、「クボタショック」により、工場周辺の住民にも被害が及んでいることが分かりました。原因が分からないという被害者も大勢いますが、調査が足らないだけだと思います。複合曝露もあります。工場周辺の居住歴または他の曝露があり、成人後に職業性の曝露がある場合は労災です。成人後に曝露がない場合は環境曝露です。原因不明とされた方も環境曝露である場合が多いです。または家庭内曝露など、作業着の洗濯や作業者による家庭内持ち込みです。尼崎では今、日通を相手に五人が集団提訴しています。原告の一人である古嶋さんの夫は昔、神戸港にあがった石綿をクボタに運ぶ仕事をし、腹膜中皮腫で亡くなりました。その後、長女も胸膜中皮腫になりました。当時、夫は作業服を工場で洗っていましたが、靴下や下着は家に持ち帰ってきたので、当時赤ちゃんだった長女のおむつと同じタライで洗う時もあったそうです。典型的な家庭内曝露です。

補償の格差
一番大きな問題は、曝露状況によって補償額に差があることです。
石綿救済法では、すでに死亡した方の遺族に三〇〇万円支払われます。クボタの周辺被害者は、新法の三〇〇万円+クボタの補償金で約四〇〇〇万円です。そして労災年金の受取額ですが、ここでは遺族が二〇年間に受け取る年金額を平均的に考えました。
従来の労災遺族の方は、一時金三〇〇万円+月額(平均で一三万円と仮定)×二〇年間で三四〇〇万円。企業賠償のある方は、三四〇〇万円+二五〇〇万円(企業賠償を二五〇〇万円と仮定)で五九〇〇万円。
時効救済だと毎月の年金額が二〇万円×一五年間で三六〇〇万円(時効救済の方は種々の不利益を考慮して一五年間の受け取りとした)。更に企業賠償がある方は六一〇〇万円です。でも若い頃に石綿を吸って、その当時が低賃金だとかなり下がり二〇〇〇万円位になります。その方が企業賠償を受け取ると、四五〇〇万円です。この様に曝露形態によってかなりの差があります。この格差を何とか一律のラインにしなくてはいけないと思います。これが今後の大きな課題です。そのためには、患者と家族が立ち上がらなければ問題は解決しません。

今こそ立ち上がる時
選挙前に自民党本部に電話して、アスベストの事をなぜマニフェストに書いてないのかと聞きました。電話での対応者はコロコロ変わりましたが、「マニフェストは選挙のために用意するもので、本来の政策集とは違う」という答えでした。つまりマニフェストになくても姿勢は変わらない、その証拠に石綿新法を改正したというのが自民党の言い分でした。次に民主党に聞くと、「インデックスに書いてある。選挙があろうとなかろうとこの姿勢は変わらない」という力強い返事でした。
選挙では民主党が圧勝し政権が交代しました。民主党は、「被害者の属性により救済内容に格差が生じない隙間のない救済を実現」「患者・家族をはじめとする関係者の参加を確保し」「(環境被害の救済を)労災保険給付と同レベルに引き上げ」、「石綿肺などアスベスト関連疾患を救済制度の対象疾患に追加」、「家族や周辺住民への影響については無料健診など住民等に対する健康管理体制を作り」「復帰前沖縄米軍基地での曝露も含め時効期間が過ぎても請求できるようにします」と書いています。これは選挙があろうとなかろうとマニフェストに書こうと書くまいと、自分たちの基本姿勢だと言っています。田島副大臣も記者会見で言っています。だから新たな政権に対し、私たちが働きかけることが大事です。今こそ、私たちが長年取り組んできたアスベスト運動の大きな転換期、千載一遇のチャンスです。ここで私たちが立ち上がらないと何も前に行かない、大事な時期に来ています。すべての被害者に平等な救済と補償を確保するための「アスベスト対策基本法の制定」の実現に向けて、私たちも土俵に入って一緒に考えることが今、目の前に近づいています。
全国にはたくさんの仲間がいます。本日、横浜の鶴見でお話させていただいたことを私はとても感謝し、嬉しく思います。これから目標に向かって、皆さまとさらに頑張っていきたいと思います。ありがとうございました。