センターを支える人々:村上博子さん(全労協全国一般東京労働組合 日本エタニットパイプ分会 分会長)
アスベスト闘争40年余 入社してから
私が日本エタニットパイプ㈱大宮工場に入社したのは1968年で、家から通えるところで働くという動機であった。入社時にJIS規格製品を生産している東証一部上場企業であるという説明を受けた記憶がある。当時は人手不足で入社するとまもなく社員となりユニオンショップの労働組合が存在したので自動的に労働組合員となった。組合は中立労連の全国セメント労連に所属していた。20代は石綿の危険性を全く知らされずに、事務所に席はあったが、石綿だらけの試験室で働き、作業日報集めに各現場を回っていた。私が石綿の危険性を知ったのは1981年、事務所に席のある現場の職長のMさんが入院しており、彼の中皮腫という病気を知ってからで30代前半のことである。10年以上も石綿の有害性に無知のまま、この埃っぽい工場に働いていたことになる。全員が石綿を吸入せざるを得ない工場であった。
大合理化の中で
1982年の在籍石綿労災死亡者複数名の発生の年、大宮工場移転、高松工場閉鎖など大合理化が始まっていった。意識の吹き上がりと暴圧合理化の中、特に当時は総評傘下であった労組高松支部には総評弁護団がつき解雇が争われ、石綿労災にはじん肺弁護団がつき労災認定者の企業に対する損害賠償訴訟が立った。総評末期の闘う労働運動を経験して一定の成果を得た。エタニットパイプの製造中止は1985年でありこれは企業分割、石綿管工場の切り離しであり、新たに開発したリゾート部門の企業へと変身するものであった。結果的にはパイプ部門は代替品のホーバスパイプ工場は子会社化後譲渡、民事再生法適用、破産で無くなった。そして静かな時限爆弾と呼ばれる潜伏期間の長い石綿関連疾患はダラダラと発生し続け、リゾートに商品転換した旧エタニットパイプ㈱である現リソルホールディングス㈱へと石綿労災企業補償請求は引き継がれて現在に至っている。
労働組合の分裂
商品転換の大合理化過程では時間差を設定、工場閉鎖、代替パイプ部門は破産で無くなったが、その間、労働組合は分裂、結果的には企業内のユニオンショップ労組本体は無くなり、裁判で争った高松支部(解雇)と当分会(転勤)が日本エタニットパイプという名で労働組合として残存しているが共に高齢化した退職者組合であり消滅は近い。
分会の成立
最初、私は大宮工場からの不当配転で争っていた。それは「採用しつつの余剰処理配転であったので」仮処分勝訴したが就労かなわず転居。不当配転先就労和解したところ、追い打ちで配転通知約款の提案を受け、飲まざるを得ない企業内労組を脱退して配転同意約款要求、地元の合同労組に所属した。当時の総評解散連合への動きに当分会は石綿健診・補償協定化を要求しており、労使協調路線を歩めず全労協傘下の東京労組へ転籍して現在に至っている。
分会団交解決は
権限ある団交メンバー要求、労働委員会闘争をして中労委で和解するも、不誠実団交の不当労働行為でぶつかり東京総行動にエントリーして闘うが限界にきている。和解不履行では「債務不履行の損害賠償訴訟」か。石綿の集団的被害を発生させているのだ。当分会は最高裁不当敗訴者遺族や不当労災申請棄却者遺族を抱えてそれらの是正要求をしている。会社側は団交を弁護士に委任しておりすべて裁判の場で争うことを要求する。この点、同業他社であったクボタの姿勢とは異なる。労組や共闘会議との議論の23春闘となっている。分会のスタンスは当然「全員・救済」である。三桁石綿労災発生企業は石綿疾病の博物館である。労災認定基準にあてはまる被害者ばかりではない。グレイゾーンの被害者は多い。そして不幸中の幸運にも認定基準に当てはまるケースと思いきや、昨年は石綿じん肺で肺がんであるのに急性心不全で亡くなったので急性心不全は肺がんとの因果性がないから労災申請棄却決定などという驚くべき監督署の劣化があった。どれだけ多くのじん肺患者が解剖とまではいかずこの手口で埋もれたものかと思う。「監督署は監督業務など履行できるところではない」からこそエタニットパイプ大宮工場を表彰などして、石綿労災を多発させ、そういう監督署に労災申請棄却されて踏んだり蹴ったり、となる。患者・家族会の方々とともに石綿疾病の全貌をみつめつつ一歩前に行けたらと考える日々である。