センターを支える人々:鳥井 一平さん(NPO移住者と連帯する全国ネットワーク共同代表理事)
神奈川労災職業病センターを初めて訪ねたのが1980年の5月頃だったと思います。1978年12月から東京都荒川区にあるプラスチック成形工場で働いていた私は80年2月に、成形する製品の付け替えのために工場内で金型(420㌔)を台車で運ぶ途中、坂道で金型が移動し重心がズレて手前に転倒し、左手中指を失ったのでした。(障害等級12級)。どなたに対応して頂いたのか記憶が曖昧ですが、話を聞いてくれた相談員の方が私と同じように指が欠損していて、なんとなく安心感がありました。その際、荒川区であれば東京にある東部労災職業病研究会準備会に相談に行くようアドバイスを受けました。それから45年以上も関係が続くとは。
東部労災職業病研究会の結成にも参加し、事務局にも入らせて頂きました。荒川区から江東区亀戸に週1回行くのが楽しみでした。事務局には平野さん、小嶋さん、杉浦さんら医師をはじめMSWの高山さんなど医療関係者や労災職業病の専門家がいて、会議で飛び交う専門用語に刺激を受けながら使用者責任と労働者の権利を勉強しました。
また、労住医連や各地の労職研、安全センターが集まっての省庁交渉は自分たちの闘いに自信と確信をもたらしたのです。
東部労災職業病研究会から東部労働安全衛生センター、東京労働安全衛生センターへと発展する歴史の中でも神奈川労災職業病センターとは切っても切れない密接な関係であったことは皆さんご存じのことでしょう。ですから私の中では切り分けて考えることはできません。
労働安全衛生の闘いに関わることによって中小零細をフィールドとして活動する私を世界、地球規模的な意識へと導いて頂きました。
1990年に香港でのワークショップに早川さん、川本さん、飯田さんと初めて参加したのを皮切りに、亡くなられた天明さんに導かれ、1993年にシェフィールド、1995年にリミニ、1997年にウイーンでのヨーロピアンワークハザーズカンファレンスに出席しました。安全衛生における「認識差」や「言語」の課題などを知り、討議のあり方や討議ツールなど、グループ討論やOHP、フィリップボード、労働者の参加を促進する方法などを知りました。
天明さんの思い出。シェフィールド報告会(江東勤労福祉会館)で、スライド(当時はポジフィルム)上映を終えた後の厳しいけれども的確な指摘。「鳥井さんを派遣したのに残念。『アンダーグランド』です。」スライドの地下鉄を『サブウエイ』と表現したという恥ずかしく、教訓となった瞬間でした。そして何よりも「Everybody is Different」を授けてもらいました。今に続く活動の基礎のひとつです。
早川さんの思い出。一見気難しく見える早川さんが香港ワークショップの宿舎(老人健康中心)で見せた朗らかさ、はしゃぎぶりが忘れられません。その早川さんから1990年に電話がかかってきて、ガーナ出身労働者の問題を取り組んでほしいとのことでした。ガンで入院中の済生会病院で面会し、組合加入し、その後、本人は治療のために帰国。プラスチック成形工場の会社と団交を行い、未払い賃金を獲得、送金しました。これが、私が初めて取り組んだニューカマー労働者の労働問題でした。
その他、まだまだセンターとの関わりは語り尽くせません。何しろ45年のつき合いですし、私の活動の基礎となる多くの事柄でもあります。しかし、紙面の関係とニュース発行の期限もありますので、今回はここまでとします。また機会があれば書かせていただければありがたいです。
