東日本建設アスベスト訴訟(2陣)原告尋問、始まる

 神奈川労災職業病センターも支援している東日本建設アスベスト訴訟の第2陣訴訟。第2陣訴訟の最初のグループは23年5月に提訴しているので早くも丸3年が経過した。第2陣訴訟の原告数は15名おり、今年から原告尋問が順次始まっている。本稿では26年4月24日に原告尋問を見事にやり切ったMさん夫妻の陳述書を掲載する。アスベスト被災者である父親から愛情豊かに育てられた娘さんと、被災者と一緒に建設現場で配管工事をしていた娘婿による陳述書である。【鈴木江郎】

原告Mさんの陳述書 はじめに

 私は被災者の長女です。父と母の聞には私以外に長男がいます。この陳述書では、父との思い出、父の人柄、父の闘病生活等についてお話ししたいと思います。

父との思い出や人柄

 私は1968(昭43)年、両親が21歳のときに産まれました。私が産まれたときには父はまだ若かったですが、仕事の休みの日には私と一緒の時間をたくさん作ってくれて、いつも可愛がってもらいました。建築現場での仕事は危険があり、体力的にも辛いこともあるでしょうから、きっと仕事中は厳しい表情もしていたと思います。父と一緒に仕事をしていた私の夫は、仕事中には厳しく、荒い言葉遣いのこともあったと言っています。しかし、私といるときは、いつも優しい笑顔で、私は小さい頃から父と一緒にいる時間が大好きで、安心できる時間でした。毎年、夏には伊豆の海に、冬には苗場などのスキー場に連れて行ってくれました。恒例の旅行は私が小学生のときから高校生まで続きました。私は、自分の子供にもスキーを教え、伊豆の海にも連れて行きました。自分が父からしてもらったことを、自分の子供たちにも体験してもらいたいと考えたからです。
 父はプロ野球の巨人ファンであり、毎年1度は東京まで野球観戦に連れて行ってくれ、私も巨人ファンになりました。私が成人した後も、私と父は一緒に出かけることが多く、競馬を体験させてくれたり、飲み屋さんに連れて行ってくれたこともあります。
 母は肺炎の持病があり、私が小学生から中学生のときには頻繁に入退院を繰り返していました。母が入院している間、父は、私と弟の面倒を含めて全ての家事を黙々とこなしていました。自分の仕事もある中で大変なことだっただろうと思います。家族を支えてくれたことに感謝しています。
 私の家には父と一緒に仕事をしている職人の方々が頻繁に集まり、飲み会を開いていました。父は周りの職人の方々にも気を遣いながら仕事をしていたようで非常に慕われていました。

入院に至るまでの経過

 私が父の体調の変化に初めて気が付いたのは2020(令2)年4月に祖母の葬儀で父に会ったときのことです。その時、父は以前と比べて痩せていましたし頻繁に咳をしていました。私は、父が何かの病気にかかっているのではないかと心配になり、葬儀が終わった後、両親の自宅で母に、「癌とかじゃないといいけど大丈夫なの」と問いかけました。その時、母は、「そんなことはない」と、否定していました。
 その後、労働基準監督署での聴取では、母も、「2021(令3)年3月頃から咳が出ていました」と伝えていますので、母も、父の咳は気になっていたのだと思います。
 2021(令3)年4月に親戚の法事で再度、父に会いました。父は、相変わらず痩せていましたし、咳をする頻度も前回会ったときよりも増えている印象でした。このときも、私は母に対し、「やはり、おかしいんじゃないか」と伝えました。
 父は、同年7月に受けた神奈川土建の健康診断で肺に影が見つかり、より大きな病院を紹介されました。ところが、その病院において対応できないと言われ、北里大学病院(相模原市南区北里)を受診することになりました。父は、日頃から我慢強く、できるだけ家族などに心配をかけたくないと考える人でしたから、上記の受診も全て父が1人で行きました。
 しかし、同年8月に北里大学病院を受診した際、検査結果を伝えるために家族も一緒に来院するよう病院から言われました。私は父と母と一緒に北里大学病院を受診し、医師から「癌です」と宣告されました。癌が大腿骨にまで転移しており、手術はできないという衝撃的な診断も同時に伝えられました。そのうえで新薬(抗がん剤)で良いのがあるのでそれを試しましょうと言われました。
 別紙の写真(省略)はその年の8月に私の弟が父の自宅にて父を撮影した写真です。ご覧のとおり、入院前から体の肉が落ち、頬もこけており、目つきにも元気がなく、一見して健康状態に問題があるように見えます。元気だったときのはつらつとして様子が無くなっていたのです。

入院時の状況

 父は2021(令3)年8月から、抗がん剤投与のため北里大学病院に40日間程度の入院をしました。新型コロナウイルスの感染拡大が続いていたため入院中の面会は禁止され、父と会えるのは医師から病状等の説明を受けるときだけでした。
 入院中に医師の説明を受ける際に父と病院で会った際、父は車椅子に乗って看護師に押してもらって診察室まで来ました。入院前は歩いていたのに突然に車椅子になってしまったので私は大きなショックを受けました。また、父は口に酸素マスクをつけており、頬も痩せこけて頬骨が浮き出ており、足も骨張っていました。明らかに衰弱し、目つきも虚ろでした。いつも優しく微笑みかけてくれていた従前の父の姿とはかけ離れていました。
 父の話によれば、病院食が合わず、なかなか喉を通らないということでした。面会禁止でなければ、私や母が自宅で作ったものを毎日届けることができるのに、それもできないことにもどかしさを感じましたし、父に対する申し訳なさも感じました。母は父に対し、「こんなに痩せちゃって。ちゃんと食べなきゃダメだよ」と伝えましたが、父は「食えねえんだよ」と答えるだけでした。

退院後の経緯

 入院までして抗がん剤投与をしましたが、父の体には抗がん剤が合わなかったということで、病院から退院するよう連絡がありました。私も母も、他の予定の調整と父を自宅に迎え入れる準備がありましたので、直ちに迎えに行くことはできませんでした。病院にはそんなに長い期間待って頂いたつもりはありませんでしたが、病院からは何度も迎えに来るよう催促の電話がありました。病院にも入院を待つ他の患者がたくさんいるという事情があることは頭では理解しているつもりでしたが、衰弱した父の姿に落胆していた私にはそれを受け止める余裕がなく、父は見捨てられたという被害者感情のような気持ちが起こるのを抑えられませんでした。
 退院後は、当時の両親が住んでいた座間市の自宅に戻りました。座間市の自宅は急な階段を上った先にあります。退院した父はその急な階段を1人で上る体力がなく、ケアマネージャーの方2名に両脇を支えてもらいながら何とか自宅までたどり着くような状態でした。その後、自宅で週1~2回の訪問診療を受けることになりました。
 父は自宅前の階段を降りることが出来ないため外出することはなく、終日自宅で過ごすことを強いられました。介護ベッドの上で過ごす時間がほとんどで、食事のときのみ起き上がるという生活が始まりました。痛み止めのモルヒネが処方されましたが、痛みを完全に抑えることはできなかったようです。父はベッドの上で頻繁に顔をしかめながら寝返りを打っていました。恐らく耐えがたい痛みが襲っていたのだと思いますが、私には「痛い」とは言いませんでした。心配をかけたくないと考えたのでしょう。母には時々「痛い」ということは伝えていたそうです。
 自宅では主に母が作った料理を食べていましたが、食べる動作でも体の痛みが生じるようで辛そうでした。それでも父は必死に食べ物を口に運んでいました。食べなければ死んでしまうという恐怖に駆られているようでした。
 退院後しばらくは座間市の自宅で生活してましたが、自宅前の階段が原因で一切外出ができず、息苦しい生活が続いていましたので、家族で相談して私達夫婦の自宅に近い相模原市に転居してもらうこととしました。
 2022(令4)年1月に相模原市に転居した後は、杖をつき、母に脇を支えられながら少しだけ散歩することができました。ちょうど桜が咲いている季節でしたので亡くなる前に少しだけホッとできる時間が持てたのではないかと思います。 この頃、父は収入が途絶え、私達夫婦から経済的支援も受けていたことから、私の夫に会うたびに「悪いね」、「ありがとう」と言っていました。これまで身を粉にして働き、家族を支えてきてくれたのですから私としては父に対する支援は当然のことだと思っていました。最期の最期に、痛みに耐えながら、しかも娘夫婦に申し訳なさを感じながら生活しなければならないのはあまりにも惨めではないでしょうか。
 同年5月のゴールデンウィーク頃には、父は片眼が大きく腫れて、まるで殴られたボクサーのようでした。腫れた片眼は見えていないようでした。医師からは、眼にも癌が転移しているのだろうと言われました。もう治療の術はない状態でしたので精密検査などはしませんでした。

父の最期

 2022(令4)年7月の中旬以降は急に食事をとることができなくなりました。それまでは食べるのも辛い状態でも何とか母の作った食事を食べていましたが、それもできなくなったのです。そして、食事が取れなくなると、父は途端に衰弱していきました。
 同年7月、父は自宅のベッド上で体の痛みのためにもがいた際、ベッド下の床に落ちてしまいました。自宅にいた母が看護師さんに電話しましたがすぐには来てもらえず、ようやく昼頃に来た看護師さんにベッドまで持ち上げてもらいました。母から私にも電話がありましたが、仕事中の私を心配させたくないと思ったのか経緯を詳しく話さなかったため私はそれほど急を要するとは認識せず、仕事が終わってから父の自宅に向かいました。
 私が父の自宅に着いたときには、父のベッド周りには父が嘔吐等をしたときに備えて吸水用のシートが敷いてありました。これまでとは違う異様な光景に、私は足がすくむようでした。
 それでも父は、私の前ではやせ我慢していたのか弱気な言葉を発することはありませんでした。その代わり私に、「夕飯一緒に食べていきなよ」と声をかけてくれました。しかし、私は父のベッド周りに敷くシーツを買いに行かねばならなかったので父の家で食事をとらずに帰宅しました。今思えば、この時が父と一緒に食事できる最後の機会でした。せっかく父が誘ってくれたのにと、悔やんでも悔やみきれません。
 私が帰宅後、夜12時頃、父の自宅にいた弟から電話がありました。父の様子がおかしいので医師を呼んだというのです。私は急いで父の自宅に向かいましたが、間に合わず、父は既に息を引き取っていました。息を引き取る直前に母に対して「ありがとうな」と言ったということです。

最後に

 今でもテレビ等で野球を観ていると元気だったときの父の姿が自然と思い出されます。その度に、「もうお父さんはいないんだ」という現実に気が付くのですが、それを正面から受け止めようとしない自分がいます。父が亡くなってから3年が経ちましたが、今でも父の死を受け入れることができていません。もし父が別の仕事していたら、アスベストにばく露していなかったら、今でも野球観戦に誘ってくれたかもしれない、伊豆の温泉にゆっくりと旅行していたかもしれない、そんな悲しみ、悔しさがこみ上げてくるのです。
 優しかった父、私にとって本当に大切な人を死に追いやったアスベストやその危険性を把握しながら製造・販売を続けた建材メーカーに対して強い怒りを感じています。
 裁判所においては、たくさんの被災者が賠償を求めておりますが、その1人1人が私と同じような大きな苦痛を今でも抱えていることをご理解いただきますよう何卒よろしくお願い致します。