センターを支える人々:天明佳臣(医師・所長)

私は東京生まれの東京育ちです。でも、いわゆる「江戸っ子」ではありません。結婚した時に戸籍謄本には「東京府荏原郡矢口村出生」(東京都制交付は43年6月)とありました。現在の居住地の近くにある菩提寺には、「天明家代々の墓」がいくつもあり、農家だったのに、江戸前期の墓にも天明姓が刻まれています。
太平洋戦争が始まって3年目の44年4月に、私は旧制中学に入学しました。すでに戦争の先行きには暗雲が垂れ込めていましたが(43年2月ガダルカナル島撤退=実は退却、5月アリューシャン列島の日本軍守備隊2500人玉砕=実は全滅、キスカ島の日本軍撤退=やはり退却)、庶民は日本軍がいつか反攻、逆襲に出ると考えていたかどうか。私の家では敗戦など話題になりませんでした。
中学には配属将校と称する軍人がいて軍事教練という教科がありました。ほぼ毎回初めに、教育勅語の最重要箇所だという部分を暗唱させられました。「一旦緩急あるときは義勇公に報じ、以って天壌無窮の皇運に賦与すべし」(パソコン入力すると正しく漢字変換されました)。要するに戦争では天皇陛下万歳と叫んで戦死せよと。口パクの生徒は目ざとく見つけられて、前に呼び出されて殴られました。「右のげんこつは天皇陛下、左はお前たちの親である、殴られた時はそれぞれ、ありがとうございましたと言え。」
しかし、軍事教練は翌45年3月で終わりになりました。東京では3年生からだった「学徒勤労動員」が2年生からになったためです。私は同級生と軍隊に納入する粉味噌・粉醤油製造工場に連れていかれました。ところが7月になると突然「夏休み」と言われました。私の3歳年長の姉が動員されていた軍需工場は夏休みなどありません。粉味噌・粉醤油工場は、製造原料ゼロになって閉鎖されたのでした。江東区が全滅した東京大空襲は同じ年の3月9日でした(23万戸焼失、死傷者12万人―近代日本総合年表 岩波書店から)。
敗戦直後の中学校では、気の毒だったのは教科書のない(あってもほとんど墨塗り)社会科教師でした。私のクラスに口数少なく全く目立たなかった生徒の一人が、ある時突然社会科教師の話に反論して、黙らせてしまいました。何度かそういう場面があったのですが、彼は「資本と労働者の階級対立」という物差しを持っていたのです。彼は私に、上部構造と下部構造の講釈をして、経済学の勉強がいかに大切かを強調しました。どんな本を読めばよいのかと聞くと、有沢広己編「経済学辞典」(青木文庫)を貸してくれました。私は幸い大学進学は既定とされた家に育ちましたから、経済学部に進学するつもりでした。しかし、経済学を勉強してみても、それを専門とする素質などないことがすぐにわかり、途中で医学部進学に方向転換しました。(当時の制度では教養課程2年間で単位を取得して、改めて医学部を受験する制度でした。ちなみに私は教養課程に3年かけました。)
医師の資格を得ても、どの臨床科を選ぶかは決めかねていました。大学病院の無給医局員だけにはなりたくありませんでした。かつて多くの刺激を受けた「農村医学講話」(伊藤書店・49年)の著者である林俊一先生が院長をしていた、東京都北区王子にある労働者クラブ生協附属病院を訪ねていろいろなお話を聞きます。この病院にお世話になることを決め、空席のあった外科に入りました。ある程度、自己医療技術を評価できる外科でよかったと思います。
私の技術について多少の不安がないと言えばうそになりますが、外科では大変有能な2人の先生から学ぶことができました。労働者クラブ病院には6年在籍。その間に受け持った東北からの出稼ぎ農民の患者さんが抱えている社会医学的な問題について調査すべく、妻が在籍していた東京医科歯科大学の農村厚生医学研究施設に入りました。私は出稼ぎ農民の健康についての調査研究を日本衛生学会や日本農村医学会で発表しました。戦後の出稼ぎ農民の健康問題については、先行研究がなく注目されました。出稼ぎ農民の健康診断を、研究室の同僚の協力も得て、東京や神奈川でやってきましたが、出稼ぎ者の送り出し地の自治体での調査研究もする必要があると考えて、山形県の2つの自治体病院で合計5年3ヶ月ほど勤務しました。
そろそろ東京に戻ることを考えていたとき、おそらく労働科学研究所の経由で、神奈川からの話が入りました。今井重信先生と蒲田駅前で話し合ったのを覚えています。神奈川県勤労者医療生協港町診療所での仕事、今井先生を中心とした港湾労働者の運動器疾患の労災集団申請、造船労働者のじん肺への取り組み。これらが軌道に乗ったところで、労災職業病センターの小野隆君と私が中核となって、斎藤竜太先生、春田明朗先生ら医療生協の医療スタッフばかりではなく、労働者住民医療連絡会議の院所の方々の協力を得て、東北地方からの出稼ぎ農民の出稼ぎ先での健康診断を再開しました。