肺ガンの労災認定をめざして

 疫学的に調べたところ、一般の人に比べてじん肺の患者さんに肺がんが多いこと、岩石などに含まれているシリカが発ガン性物質であることから、じん肺患者の肺がんについては、労災職業病と考えることが国際的な潮流である。十条通り医院に通院していたじん肺患者のNさんが、肺ガンで亡くなってから2年余り。このたび遺族補償の請求が行なわれた。
粉じん作業を五〇年

 Nさんは一九三一年生まれで、一七のときから石材屋で働くようになった。それから会社はいくつか変わったが、三〇年余りを石工として、二〇年近く土木関係の仕事に就いた。土木関係も、トンネル工事などにも従事しており、粉じん作業歴はほぼ五〇年。まさにほこりにまみれて働いてきたのだ。

 一九九五年四月、六五歳になった頃、どうも息苦しく身体が思うように動かない。セキやタンも出る。やむなく退職を余儀なくされた。いろいろな医者にもかかったがよくならない。町の健康診断で保健所の医師がレントゲン写真を見て言った。「Nさんこれはじん肺ですよ。こんなにひどいのは、労働基準監督署に相談に行けば補償が受けられるはずです。」労働基準監督署に行って、関東労災病院を紹介される。

労災病院と労働局の医師の見解の相違

 労災病院の医師は、管理4だと判断し、じん肺管理区分申請をする。ところが労働基準局(当時)の診査医は、じん肺の合併症の一つである「気管支拡張症」の疑いがあるとして、再度診断するように労災病院に求めた。しかし労災病院の医師は気管支拡張症はない、管理4だと主張。一九九六年五月、結果としてじん肺管理区分3ロとなった。これでは補償は受けられない。Nさんは不服審査請求までしたが、やはり結論は変わらず。

 生活に困窮しながらも治療を続けたが、よくならない。そこで、じん肺アスベストホットラインを新聞で見て相談して、十条通り医院にかかった。タンも出ており、明らかに続発性気管支炎であった。スムーズに労災認定を受け、治療に専念できることになった。ただNさんの住む箱根町からは、あまりにも通院に時間がかかる。それでもNさんにしてみれば何の結果も得られなかった、川崎の労災病院などよりもはるかに近くてありがたい存在だったのである。

肺がんは労災だ!

 一九九九年九月、いつものように十条通り医院にかかったNさんの症状は良くなかった。Nさんはしきりに家に一度帰りたがったが、大事を取り、即入院することになった。お見舞いに行くと、「看護婦さんにも親切にしてもらい、入院してよかったです」と話されていた。その後も律儀にお手紙を下さる。「身体もだいぶよくなりました。今月いっぱいでだいぶ良くなると思います」実は、すでに肺ガンが進んでいた。一二月三日、逝去される。

 家族の方と労災補償のことのお話もした。残念ながら、労働省(当時)の認定基準上は管理4の人しか、肺がんは労災認定されない。お連れ合いも、「制度のことはよくわからないけれど、仕事で肺の病気になったのに、なぜガンは認められないのか」と息子さんらに話されていたと言う。「今、ちょうど改正されようとしているから、ぜひ請求しましょう、改正させるには声をあげるしかないのです」と、請求を勧めたが、とりあえず断念された。考えても見れば、当然認定されるはずのじん肺すら、行政の不手際(としか言いようがない)で認められなかったのだ。その行政がダメとしているものを変えるなどというのは不可能だと考えられても仕方ない。

 二〇〇一年五月厚生労働省が、じん肺肺がんの認定基準について若干の改正を行なった。管理4にかなり近い管理3ロで、じん肺のために発見や治療が困難で、死亡した事例については認めてもよいというもの。この三つの条件はけしからんものではあるが、Nさんは該当する可能性が高い。このことを遺族にお伝えしたところ、二〇〇一年末、請求に至った。

 そして、ついに二〇〇二年二月、厚生労働省が管理3のじん肺肺ガンを労災と認めると記者発表。詳細は、認定基準の発表後でないと分からないが、Nさんの認定に更に一歩近付いた。