あらためて振り返る神奈川労災職業病センター設立前後の状況(所長 天明佳臣)

はじめに

京浜工業地帯には鉄鋼、石油、造船、電機などの大企業の工場が立ち並び、さらに関連する中小零細企業の下請け工場がひしめいていました。この地域の1970年代の労災職業病の事情と言えば、事業所のほとんどは労働者の非災害性の疾病を労災職業病と認めようとしません。一方において、医師達の多くは、患者たちが働く職場の様子を知りません(いや、「とくに知ろうとしない」と言った方が適切か)。さらに労働行政は容易に労災認定しないとしか考えられない状態にありました。


こうした状況の中、労災職業病を認めさせる闘いに立ち上がったのが全石油ゼネラル石油労組や全造船日本鋼管分会でした。まず、その辺の事情を、若い仲間の方々に知っていただこうと考え筆を執りました。ただ、ずいぶん前の話で事実誤認などがあるかもしれません。その点はご容赦ください。

全石油ゼネラル石油労組の闘い

川崎市浮島地区の石油コンビナートの一角を占めるゼネラル石油で、全石油ゼネラル石油労組が、ガソリン添加剤(毒性の強い四エチル鉛)のばく露によって発症する慢性中毒を、「労災として認めよ」とする闘いを労働基準監督署に対して起こしたのは72年でした。

同労組は70年の組合支部長解雇事件を契機に無期限ストを打ち、組合分裂に続く11名の解雇に対する反撃の一環としての、四エチル中毒の労災認定闘争でした。この間に企業責任を追及する1万名署名を集め、地域の支援労働者と共に、4ヶ月間にわたり毎週土曜日に労働基準監督署に押しかけて、四エチル鉛や有機溶剤の中毒患者13名の労災を認めさせていきます。

さらに同労組は、労働科学研究所の研究員の協力を得て、職場における作業実態に迫る活動に取り組み、現代科学の最先端をゆく石油コンビナートの実態を明らかにしました。例えばガソリン添加物の混入現場では竹ぼうきが使われていることなど、30数項目にわたる法令違反について川崎南労働基準監督署に改善命令を出させました。78年には、同労組は四エチル鉛中毒患者などの解雇者の職場復帰をはじめ、すべての係争案件を勝利のうちに解決しています。

全造船日本鋼管分会の闘い

日本鋼管における闘いは、小野隆さんの腰痛症を軸に展開しています。小野さんは71年に高卒定期採用で日本鋼管に入社し、鉄板に切断のための線を描いてゆくマーキング作業に従事しました。中腰の連続作業のために就労して1年3ヶ月経った頃から「疲労性腰痛症」に苦しむようになります。今日の整形外科領域の進歩した画像診断や生理機能検査を駆使しても捉えることのむつかしい難治性の「慢性腰痛症」がありますが、小野さんの腰痛はまさにそれだったのでしょう。

小野さんは73年1月に会社に対して腰痛を職業病として認めるよう要求します。同年3月には工場門前でビラまきを開始し、職場では職制に対して現認要求し、自主的に休憩、体操をしています。

74年9月、仮病呼ばわりして椅子を蹴飛ばし挑発した職制に抗議したことを理由に、小野さんは懲戒解雇されます。その後に労災申請し、76年1月に鶴見労働基準監督署は業務上認定としました。74年10月には懲戒解雇無効の裁判を横浜地方裁判所に提訴し、76年5月には裁判所から和解提案がなされますが、会社側が拒否し交渉は決裂します。

77年4月に「小野君の闘いを支援する会」が結成され、同年5月に小野さんは、横浜地裁に腰痛の民事損害賠償請求裁判を提訴します。同年10月に開かれた第2回口頭弁論では傍聴席を小野さんを支援する人々で埋め尽くし、冒頭意見陳述を勝ち取ります。79年2月には全造船鶴造分会(現JFE日本鋼管分会)が結成され、「支援する会」は発展的に解消します。

小野さんの闘いについて、アンドレ・レノーレ神父(当時川崎浅田教会)は次のような文章を発表しています。「小野さんの14年間の長い闘いは、職場復帰はならなかったとしても無駄ではない。生産と出来高と機械よりも労働者の方が貴いということで、人の健康を訴える貴い闘いでした。問題を起こさないで、迷惑をかけないで、大企業に反対しないで、静かに辞めていく労働者が多い中で、巨大な企業に向かって仕事による病気は労災扱いすべきだと訴えることは、人間にふさわしいプライドある姿勢だ。働くものが機械より優れており、機械より尊いことを彼の闘いから感じました。」

もう一つの潮流、全港湾労働組合の闘い

全港湾中央本部は、長年にわたり「抵抗なくして安全なし」のスローガンを掲げ、職場の安全の確保と、港湾労働に起因する職業病の実態解明とその対策に力を入れています。横浜港においては、港で働く登録日雇労働者の全港湾横浜港分会(現在は横浜支部に統合)が中央本部の方針を受けて、港湾病対策に取り組むことを決定し、77年11月に神奈川県内の医療従事者、労災職業病に取り組む労働組合活動家などが、「港湾病集団検診実行委員会」(代表斎藤隆太、鳥谷部とし子)を結成しています。
実は、全港湾神戸支部、大阪港の弁天浜分会、関門港ではすでに港湾労働に起因する健康障害(表1の、岡山大学医学部衛生学教室から神戸診療所に派遣されていた伊丹仁朗医師が「港湾病」と命名)について、なかでもフォークリフト作業者の腰痛についての調査・検診が行われ、中央本部の周旋で港湾病研究会が月1回開かれていました。こうした情報はすでに横浜港での検診グループに届いていました。

横浜港で働く登録日雇労働者の方々の検診は78年4月に2日間にわたって実施されました。健診団は上記の労組の活動家をはじめ、労働衛生の研究者から医師など40名以上で構成され、受診者は44名という状況でした。健診結果は腰椎に異常ありが77%、肝障害36%、心疾患の疑い46%など、当初の予想を超えた健康状態の悪化が認められました。これらのうちの16名が肩、腰などの障害について労災申請をしました。80年2月に11名が労災認定されました。横浜港における第1次港湾病認定者と言われている方々です。

以上に述べてきた川崎、横浜における労働安全衛生活動の潮流の中で78年1月に神奈川労災職業病センター、79年8月に神奈川県勤労者医療生活協同組合港町診療所が設立されました。