神奈川労災職業病センター設立前後の状況 古谷杉郎(全国安全センター事務局長)

横浜市民病院の給食職場で公務災害認定

 1978年1月に設立された神奈川労災職業病センターは、9月に初めて脳・心臓疾患の労災認定を勝ちとった(日本鋼管鶴造社外工の船内大工の心筋梗塞死亡)。10月に横浜市民病院で開かれた組合主催の学習会でこの事例等を紹介すると、参加していた調理チーフとサブチーフから、各々が経験した狭心症と心筋梗塞は労災とならないのだろうかという声が上がり、取り組みが始まった。
 4月に労働科学研究所や医学生の協力も得て初めて実施した港湾病集団検診の経験を生かして、しかし今回は検診ではなく、「横浜市民病院給食職場環境調査」が翌79年3月に実施された。
 労研の渡辺明彦先生を中心に、横浜市大、千葉大、東邦大、医科歯科大の医学生の協力も得てほぼ丸一日かけて、気温・気湿、入換気量・換気回数を測定するとともに、自覚症状を聴取、また「タイム・スタディ」を行った。「タイム・スタディ」とは作業者1人に調査者1人がはりついて、30秒ごとにその瞬間の作業者の作業場所、作業姿勢、作業内容を記録するというもの。もとは無駄な動作をなくす合理化のための手段として開発されたものだが、それとは反対に作業負荷の実態を明らかにしようとしたものである。実際、重量物の挙上、暑熱状況への曝露だけでなく冷蔵庫への出入り等々が観察され、他の調査結果とともに、労災認定のためだけでなく、職場改善のための資料として活用された。
 この結果は5月に報告書にまとめられ、センター、組合|横浜市従衛生支部市民病院班、千葉大労働衛生研究会による3種類の報告書が残っている。2人が実際に倒れた真夏と真冬にも調査しようということになり、同年7月に再度実施した。これら調査結果ももって8月末には組合による地方公務員災害補償基金横浜支部との交渉も行われ、11月13日に同支部は2人の心臓疾患を公務上災害として認定した(しかし、職場復帰時で療養補償終了とした)。
 私個人にとっては、正式に神奈川センターのスタッフになったのは79年4月からだったと思うが、準備段階から通して関わった最初の事例だったと思う。組合活動家と組合員、研究者、医学生らが一緒になって計画・実行をともにするのは新鮮な体験だった。その間、5月に万国橋での開業を予定していた診療所の場所が変更になって、今の場所の前|中区で8月に港町診療所としてオープン。9~12月に初めての労災職業病講座を開催。10月に開催したセンター第3回総会では、「かけ込み寺」から一歩進んで「労働運動を強める役割の一端を担うスローガンが掲げられた。どたばたとしていたとも言えるし、非常に活気があったとも言えると思う。
 研究者・医学生らとの協力という点では、12月には横浜と場で集団検診につながり、多数の看護学生も参加。脳・心臓疾患の労災認定では翌80年2月に平塚の酒造で脳出血で亡くなられた出稼ぎ杜氏の労災認定などにつながっていった(この件は全国出稼組合の大会でも報告され、4月に業務上認定された)。このようにリレーのように物事が進むときは、昔も今も運動の勢いを感じることができる。