センターを支える人々:米山よしえさん(横須賀じん肺被災者・アスベスト被災者の会 /元第三次住友アスベスト裁判原告団長)

 岩手県出身の米山さんは夫の汎史さんを2001年2月に悪性胸膜中皮腫により亡くされ(享年56歳)、横須賀じん肺被災者・アスベスト被災者の会と出会いました。現在も被災者やご遺族のサポートに携わり、当センターとの関わり合いは20年以上にわたります。そんな米山さんに事務局の池田がお話を伺いました。

▼20年前の労災申請は、本当に大変でしたね。

 主人が息苦しくなって衣笠病院に入院した時、胸水が溜まっていて悪性中皮腫の可能性があるけどここでは治療が難しいからと横須賀共済病院を紹介され、そこで呼吸器内科の先生から「悪性胸膜中皮腫です」と言われました。当時そんな病名は聞いたことがなかったので、2人で「ガンじゃなくて良かった」と喜びました。でもすぐに「ガンよりもっと悪い病気です。今の医学では薬も治療法もない。手術して取るしかない」と言われ、ガンより悪い病気があるのかとびっくりしました。その後、主人は手術をすると決心しました。
 呼吸器外科に移って主治医から「労災だから」と言われたので、「悪性胸膜中皮腫」と病名をメモに書いて横須賀労働基準監督署に行きました。すると担当者から「まずはじん肺管理区分申請ですね。神奈川労働基準局(現神奈川労働局)に行って下さい」と言われました。翌日、基準局に行ってじん肺管理区分申請の書類(診断書)を受け取り、呼吸器外科の先生に見せたところ「これはじん肺の書類。労災の書類じゃないよ」と言われ、夫婦で一瞬諦めてしまいました。
 その後、手術前に自宅に一時帰宅した主人が、新聞でベース(米海軍横須賀基地)アスベスト裁判のことが書かれていることを思い出し、新聞社に問い合わせて神奈川労災職業病センターの電話番号を教えてもらいました。主人が病院に戻った後すぐに電話したところ、池田さんと電話が通じて、翌日、若松町の横須賀中央診療所で池田さんと名取先生と面談しました。

▼あのままじん肺管理区分申請していたら管理1などになって労災申請する機会を失う可能性もありました。ちょうど米山さんと同じような事案があったのでセンターでは「またか!」ということで、横須賀労基署や神奈川労働基準局(当時)に申し入れをしました。

 私も横須賀労働基準監督署に行き、申し入れしたことを非常に印象深く覚えています。いろんな人たちが来て支えてくれたことが有難かったです。
その後、主人は片肺を全部摘出する大手術を乗り越え、退院後に労災認定され、喜んでいました。

▼でも、すぐ再入院することになりました。

 年明けに意識がなくなり人工呼吸器をつけたらしゃべれなくなってしまいました。あの時は、そんなことを考える余裕もなかったです。主人は苦しいのかすぐに管を抜いてしまうので、抑制もあり、ずっと個室で、できる限り付き添いました。呼吸器内科の主治医の先生だけでなく、手術してくれた呼吸器外科の先生も病室に何回も来て励ましてくださいました。

▼お亡くなりになってすぐ、「交わりの会」(横須賀じん肺被災者・アスベスト被災者の会特別会員の集まり「華の会」の前身)に来て頂きました。

 初めて参加した時は10人くらい集まっていて、同じような経験をされていて、話を聞きながら皆で泣きました。あの時代、毎月誰かが亡くなっていたと思います。被災者の会の行事にも参加しました。一泊旅行に酸素ボンベをつけて大森智さん(当時の会長。じん肺から悪性胸膜中皮腫を発症した)もいらしていました。

▼その後、多くの相談者やご家族の支えになっていただき、第3次住友裁判の原告団長にもなられました。

 池田さんに誘われて、相談者の話を聞きに、幸手(埼玉県)や伊勢原まで行ったことを覚えています。
 また、被災者の会として第2次住友アスベスト裁判の傍聴支援をしていましたが、裁判って大変だなと思っていました。第2次裁判が終わった時、アスベストユニオンの早川さんが「本工で解決できたのだから下請けにも補償の可能性が出てきたよ」ということで説明会を開くという話が来ました。主人はアスベストの怖さを知ってマスクも着けていたのに病気を発症しました。同僚の方々からは「あら、あんなにマスクをしていたヨネさんがなんで?」と言われました。主人もどんなに悔しい思いで亡くなったかと思うと、その思いを訴えたいという気持ちが強かったですね。また、同じ思いをしていた遺族の皆さんがいたから、第3次下請け裁判として立ち上がることができたと思います。

▼裁判が終わって、どのように感じましたか?

 あちらこちらに裁判支援のお願いに回るなど、一家庭の主婦にとって裁判をするというのは大変でした。でも、主人と他の4人(第3次裁判の当該患者さんたち)の無念を晴らすことができて良かったです。裁判が終わって、挨拶しなきゃといつも緊張していたことから解放され、やっとフツーの主婦に戻れました。

▼近所のKさんも悪性胸膜中皮腫を発症され、会社を相手に裁判を闘われました。

 現在私は町内会の副会長をしていますが、Kさんは向かいのマンションに住んでらして、挨拶程度でしたが唯一行き来がある人だっただけに、中皮腫を発症されたと聞いた時はびっくりしました。日立パワーソリューションズはのらりくらりと交渉してまるでKさんの死を待っているようでしたが、先日ようやく判決が確定して安心しました。会社は一日も早く補償して欲しいです。でも最近のKさんの状態が、亡くなった主人を見ているようで少し切ないです。頑張って長生きしてほしいです。

▼センターへひと言

 現在は、センターのおかげで安心して暮らしています。コロナ禍の中で被災者の会の集まりができなくなっていますが、早く皆さんとお会いしてKさんの裁判勝利のお祝いをしたいです。

▼ありがとうございました。これからも末永くよろしくお願いします。