センターを支える人々:大沼 潤一さん(被ばく労働学習会)

1996年の春

 当時、私は鎌倉市内の三菱電機の子会社に勤めていて、業務は人工衛星の熱解析でした。仕事の疲れ、特に眼精疲労がひどく、1ヶ月ほど休職しました。どのような経緯か憶えていないのですが、南林間の病院に行って相談をし、勤め先に労組がないので労働相談をしたことを記憶しています。何か救われた思いで労災職業病センターの会員となりました。

 結局、2000年3月に退職し、藤沢市内のいすゞ自動車に転職しました。ここでは主に排ガス処理装置の研究業務を担当しました。無理しないようにしていましたが、06年に仕事の疲れがひどくなり、心療内科でうつ状態と診断され、3ヶ月程休職しました。通院は2年ほど続きましたがなんとか回復しました。10年頃から勤め先を替えたいと思っていました。そんな状況で東日本震災が起こり、特に原発事故が影響して再びうつ状態に陥り、また心療内科に通うことになりした。幸いにも心療内科への2度目の通院は1年くらいで終了しました。

被ばく労働の学習会

 原発事故後の被ばく労働についての省庁交渉が始まり、私も参加しました。初回の交渉後、交渉を続けるための学習会が提案され、最初の会議は港町診療所で行われました。13年8月のことです。学習会は2回目以降、東京労働安全センター(亀戸)で行われていました。15年10月頃、私は自分も学習会で何かできないかと考えていました。その前年に原子力資料情報室の会報に、東電から公開されているデータに基づき、福島第一原発の作業員数、被ばく線量の集計と集団線量のグラフが掲載されていました。私は作業員の被ばくデータの見える化を続けることが重要だと思い、以後、毎月、この集計表やグラフを更新する形で学習会で公開し、現在に至っています。

 一方、会社は無事に定年まで勤め、更に3年間を再雇用で勤めて退職しました。

運と縁

 そもそもの私と原子力の付き合いについて書きます。高校生の頃、先々原子力工学を学ぼうと考えていました。ただ受験勉強は苦手でしたので、いろいろと大学を調べてみました。すると武蔵工業大学(現、東京都市大学)に付属の原子力研究所があり、電気工学科の4年はここで卒業研究ができることを知り、受験しました。入試は補欠合格でしたが何とか入学しました。父親が五島育英会の会員だったので学費も安く済みました。

 大学3年の夏に付属原子力研究所への配属が内定し、大学院進学の希望も出しました。4年になると原子力工学専攻の修士課程が開設され、翌年の院生の募集も行われ、私は無試験で合格しました。とんとん拍子でしたが、電気工学卒の学生が原子力工学の大学院に入ったのですから講義では苦労しました。また、修士論文の他にもTMI事故の報告書の要約版を作れと言われたことや京大の原子炉実験所(熊取)への出張が大変でした。ただ院生一人のために多大なリソースが投入されていたのを感じたので、先々原子力関係で何か仕事をすべきだと思っていました。

 大学院修了後は日立製作所の子会社に就職し、日立市に引っ越しました。ここでは主に沸騰水型原子炉の事故解析シミュレーションソフトウエアの開発を担当していました。

 1988年暮れのことです。解析サポート業務をしていた同僚が異動になり、私が代わりを引き受けました。仕事は東京電力から依頼された、福島第一原発において過酷事故が起きた場合のプラント挙動解析でした。しかし無難な条件の事故解析で計算結果には疑問を感じました。異動の経緯にも不満があり、仕事に嫌気がさし、1989年5月に退職しました。

 原子力と縁を切る思いで転職しましたが、結局、福島第一原発の事故が起きてしまった時、東電の過酷事故解析の不適切さを知りながら原発事故の可能性に目をつぶっていたことが心の負担になったと思います。その反省の気持ちから、被ばく労働の省庁交渉と学習会に参加しております。