クボタショック・アスベストショック10年にあたって(安全センター情報)

関西労働者安全センター 片岡明彦

今年6月は、アスベストが大きく社会問題化したクボタショックから10周年である。発端から間近で関わった者として、この10年の総括と今後の課題をよく話し合う機会を作るべきだと考える。
節目にあたって、「成功」2点と「失敗」1点を記しておきたい。
成功点の一つは、クボタ石綿禍をめぐる闘いに見事に勝ちきり、その成果を堅持しながら、全国と世界の被災者としっかり連帯、共闘できているということ。二つ目は、クボタ石綿禍の原因がクボタ旧神崎工場から飛散した石綿にあったということの因果関係は決着がついているということ。 残念なことに、一部のメディアも含めて「因果関係はいまだに明らかになっていない」という表現、言説が見られる。将来、因果関係を曖昧にしたり、反論したい勢力に利用されることになる。
失敗点は、クボタと直接交渉の末に合意した救済金制度の対象でありながら、受取を拒否してクボタと国に対して損害賠償裁判を止めさせなかったこと。それは、「被害者と運動に百害あって一利なしの恥知らずのスタンドプレー」だった。それを止めさせる行動を取らなかったことは、悔やんでも悔やみきれない痛恨の失敗だった。結果として原告の一人は、クボタに勝訴はしたが、確定判決は、「因果関係あり」を救済金の範囲よりもはるかに狭い300m以内にきわめて限定的に認定してしまった。
クボタショックの最も重大なポイントは、住民中皮腫患者である土井雅子さん、前田恵子さん、早川義一さんがメディアの前に堂々と登場し、肉声で自らの考えを語ったこと。これが勝負を決めた。当時取材にあたった人たちがどのような人たちだったのかを記しておくことも大切であると、最近とくに考えるようになった。
まず、そもそも土井さんらと出会う経緯には、「ドキュメンタリー工房」という会社が深く関わっている。鈴木昭典社長が提案、指示し、野崎朋未ディレクターが取材を進めていった。「ドキュメンタリー工房」は、日本国憲法に男女平等を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんの生涯をテレビドキュメンタリーにしたことでも知られている。戦争、環境、医療、科学などの分野で、多くのすぐれた制作実績がある。鈴木社長は化け物だという「賛辞」を述べる人もいるくらいだ。鈴木社長は、NHKのラジオ番組を聴いて大問題だと考えたのだが、どうしてピンと来たのかと尋ねたところ、「嗅覚だ」と答えた。実は、ラジオ番組を作った内美登志さんというジャーナリストも並大抵のセンスではなかったし、今でも熱心に取材依頼に応えてくれている。
内さんと同じようにクボタショックの相当前から石綿問題を取り上げていたのが、毎日新聞の大島秀利記者だ。彼は05年6月29日のクボタショックの特報を書いた人であるが、そもそも98年に阪神大震災で建物解体から出る粉じんや石綿吸入を防ぐ防じんマスクの普及を訴える記事を書いて以来、何度も記事を書き、とくに04年からクボタショックまでに、船員や旧国鉄、件数の増加など、石綿労災関連で13本もの記事を書いている。
他にも、朝日新聞の下地毅記者は、泉南の石綿被害のことを最も多く、深く、長く取材してきた。他にも少なからぬジャーナリストが石綿問題に関心を持ち続けている。そうした人たちに私たちの問題意識、ホットな話題、事件を根気よく届け、とく語り合うことを通して信頼関係を結び、私たちも学ぶということを心がけたい。