インタビュー 三菱重工横浜造船所元従業員 吉村宏さん

全造船三菱横船分会の吉村宏さん(85歳)は現在、中皮腫で自宅療養中だ。7月9日炎暑の中、ご自宅を訪ね、お話しをうかがった。酸素吸入されながらとはいえ、その話しぶりはかくしゃくとしておられ、インタビューは2時間半にも及んだ。中皮腫なにするものぞ!という現在の闘病生活から、歌声運動華やかなりし戦後直後の造船労働現場まで時代をさかのぼってお話は尽きず、あらためて造船労働者の底力と闘志を感じた。【聞き手=西田(労職センター)、平田(ユニオンよこはま)】

三菱重工横浜造船所には、いつ入社されたのですか?
吉村 1948年5月に20歳のときに入社して、すぐ電気工場の修繕船係になった。ちょうど2千人募集の三菱重工の新聞広告が載ったんで、受けたんですよ。そしたらもう明日から来てくれと。電気で入れてくれるように言ったら、その頃仕事がない。だからやっていることと言ったら、米軍の上陸用舟艇とかリバティー型の輸送船の修理ばっかりやっていた。考えてみたら、もう朝鮮戦争の準備してたんだね。三菱は軍需工場だから、爆撃して潰さなきゃならないんだが、戦後は使うつもりで工場を残したんじゃないかな。
船の中はどんな状態でしたか?
吉村 その頃は軍の船だから電気室とかとエンジン室は密閉されてんだよ。出入り口が一つしかない。だから、隣の部屋に行くには垂直のタラップを上がってまた隣のハッチから降りて行くような感じで、環境は悪いし、船の中は熱いところはパイプにアスベストが巻いてあって、ボイラーとかに作業に入ると、粉じんの出場所がないから粉じんがもうもうとしているわけ。

粉じんがかなりひどい状態だったんですね。
吉村 自分が仕事しなくともパイプなんか触っていれば、その粉じんを吸い込んじゃうわけ。
マスクはしていたんですか?
吉村 とんでもない! マスクなんて言いだしたのは、1970年代、いや、1980年代になってから支給されるようになったんで、それまで教育も何もなかった。

当時のお仕事は電気艤装だったですね。
吉村 電気の壊れたのを修理するんだ。モーター類を動かす場合、直接スイッチを入れるとモーターに負担がかかるんで、徐々に動かす起動盤というのがある。昔はアナログ式だけど、それが壊れると故障箇所を見つけて直すわけ。問題は溶接の火花。ガス溶接で切断すると火花が飛ぶから、電線の周りに装鎧という金物のワイヤで編んだ袋みたいなものが被せてあり、火花が落ちると溶けちゃう。それから守るためにその周りに石綿を吹いたわけ。電線は高い所にあるので、石綿を運んで行って電線の上に乗せて、取り外すときには上からバンバン落とす。

その石綿は布状のものですか?
吉村 そう、石綿の布で目が粗いから飛び散るわけ。当時は、石綿が危険だなんて知らされていないから、寒い時には石綿布を着込んだこともあったからな。怖さを知らないから。70年後半から会社は知ってたけど、我々には教えないでいた。外国では禁止していたのに会社では使われていた。その時点で止めるべきであったのに。

そういう作業をずっと続けられたんですか?
吉村 会社入って1年経って結核になって2年間休んだの。それから、また職場に戻って同じ仕事に就いた。後は、全造船本部での2年間を除いて35年間ずっと似たような仕事。新造船の電気艤装もやったけどね。浦賀分会の正木光さんと同じ仕事をやっていたの。一番高い所の操舵室で、風通しが良く環境は良いんだけども、部屋の区切りに石綿ボードが張ってあって、大工がボードを切断するとき粉じんがものすごかった。それが一番ひどかった。逃げるわけに行かないんだから。だから、自分でも石綿布を使ったし、周りで仕事している粉じんも吸っているわけだ。

そんなにたくさんの石綿を吸っておられて、石綿肺とか他の症状もあったのでは?
吉村 定年後2~3年して港町診療所の天明先生に診てもらったら、「肺に石綿が入ってるな」と言われた。肺の下の方に影があるって。だけど、すぐ発病するわけじゃないんでね。例えば、現場で仕事してなくても、現場から換気するのに蛇腹ホースを下ろして甲板の上で吸い上げて周りに撒き散らしているんですからね。クボタ(尼崎のクボタ旧神崎工場、周辺住民に中皮腫が多発した)と同じよね。だから現場にいようがいまいが、吸っちゃっているはずです。

いつか肺の病気になると思っていましたか?
吉村 いやいや。だって、発症なんて何万人に一人でしょ。人間てそういうもんよ。自分はならないと思い込んでいるから。

症状が出たのは、いつ頃ですか?
吉村 2012年9月です。それまで石綿健康管理手帳もらってたからね。手帳は2008年12月24日にとった。最初、じん肺申請したら、管理区分0という診断で、じん肺はないと。たまたま会社の健康管理課に熱心な女性の事務担当者がいて、石綿手帳取ればいいと言うので、手帳の申請に切り替えて下りたわけ。それから横浜労災病院で年2回の健診をずーっとやっていて、2012年9月10日に行ったら、胸水が溜まっていると言われた。胸水を2回とって、どうも中皮腫の疑いがあると言われ、それまでじん肺の相談をしていた沢田先生(港町診療所)に相談したら、一度、名取先生(横須賀中央診療所)に診てもらえということで診てもらったら、かなりひどいと言われた。それで横須賀共済病院の呼吸器内科の夏目先生を紹介され、11月5日に病院に行ったら、その場で緊急入院になった。肺炎も併発していたらしい。胸水をとったら、ヒアルロン酸の値が高いと言われ、中皮腫に間違いないと診断された。そういう意味では早期発見なのかな。肺の一部を採るとかややっこしいことせずにわかったのね。その間、いろいろあったけど港町診療所の早川さんに労災手続きの説明を受けて、妻と一緒に12月20日に労基署に申請書類を出した。51日間入院して、12月25日に退院したの。

労災はすぐ認定されたのですか?
吉村 監督署で1月16日に職歴質問書と病院診療録を見てもいいのかと同意書を書かされ、それを送り返して、19日に電話でまた職歴を確認された。3月19日に、労災はほぼ決定だが、賃金台帳がもう会社に残ってないので平均賃金が決まらないと言われた。それで年金事務所から年金記録をもらって送り返したけど、それでも決まらない。結局、会社が、俺と同じ勤続年数の人の平均賃金の資料を出したらしい。だから、4月16日に平均賃金決定通知書、4月17日に最初の支給決定通知書が送られてきた。申請してから4ヶ月位かな。

まあ早い方ですよね。三菱は石綿疾病で労災認定されている方が何人もいるから。ところで、
ここに当時の横浜造船所の地図があるのですが、覚えておられますか?
吉村 この地図にある電気工場にいたの。

工場ではどういう作業をされていましたか?
吉村 モーターとか起動機とか、現場で直せない修理品を工場に持ってきて。ここも石綿を使ってました。電線の養生に使ったり火受け。石油缶を半分に切って石綿の板を張り付けて、そこへガスで切ると、バァーと勢いよくなって、それを受けるわけ。かなりのところまで石綿が飛び散るわけ。

工場と船内、どちらの作業が長かったですか?
吉村 船の中が多かったね。内業係と外業係とあって、外業係だったから。

船の種類は、どんなものがありましたか?
吉村 タンカーやLPG、貨物船、たまに客船。外国籍の船だったけど。それに調査船。

組合分裂直後は、労災事故が多かったと聞いています。
吉村 組合分裂攻撃は、会社が利益を上げるための労働組合対策だから。利益上げるということはよけいに働かせるわけだから事故は当然増える。安全対策をしないで能率上げさせるわけだから。そういうのに組合が強いと、そういうふうにいかないって言うんで分裂させたわけよ。要するに合併して利益を上げるための方策。

その後、全造船三菱横船分会では、長谷川労災など労災補償問題に取り組みましたよね。死亡事故がけっこうあったと聞いています。
吉村 そう、そう。労災問題で最初に勝ったのは長谷川労災かな。俺が委員長になった頃は第一組合と第二組合の賃金格差があって、差別をなくす闘いが始まった。

横船分会は50名位の少数派組合ですが、すごい闘いをやったということですね。
吉村 あの頃はユニオンショップ制で、第二組合が除名すれば、会社は首を切ると思っていたわけ。ところが、会社は会社なりに法律を調べて、勝てないと思ったんでしょうね。結局、切らなかった。除名はされたけど、我々は別の組合だから除名される筋合いはないんだと。お前らは勝手に出て行ったんだから、お前らにとやかく言われることはないと。結局、会社は解雇しなかった。解雇されると思った人もいたけど、あまり解雇のことは心配しなかった。

当時、横船分会の大澤さんは劇団に所属していたと聞いています。
吉村 当時は、サークル活動が盛んだったからね。歌声運動なんか早かったからね。1950年頃から「横船うたう会」を作った。会員が50人ぐらいになった頃から会社が介入し出して、いろいろ個別に抜けろという攻撃をかけてきた。俺は、神奈川合唱団で、鶴見地区労の書記だったうちの(妻)と知り合ったの。

お二人は、いつ結婚されたんですか?
吉村 結婚して歌声は辞めちゃったから、1953年かな。28歳で。
吉村妻 当時、劇団は地区労を稽古場にしていて、建設座(今の京浜共同劇団)に大澤さんがいたのよ。
吉村 だから妻は、俺より先に大澤さんを知っているわけ。

合唱団は、どこで練習していたんですか?
吉村 鶴見の小野町にある朝鮮学校の教室で。歌声運動をもっと広げる人達を養成するために合唱団で一緒に練習していたの。横船分会(分裂前)のメーデーの前夜祭で何か催し物をやろうという計画があって、俺が神奈川合唱団呼ぼうと提案したわけ、組合に。それから神奈川合唱団の集いが始まったわけ。1953年のことで、歌声運動がものすごく高揚した時代だったかな。

いつも吉村さんと大澤さんが歌われる横船の歌がありますよね。
吉村 「造船労働者の歌」のことかな。あれは横船の歌じゃなくて、全造船でつくった歌よ。

一番、お得意な歌は?
吉村 「船乗りの歌」。これはロシア民謡。
それは神奈川合唱団の定番だったんですか?
吉村 いや、横船の定番で、要するに合唱できるのは、それと「ボルガ下り」だったから。それだと低音と高音で合唱できたんで、いつも「ボルガ下り」か「船乗り」だったわけ。

どんな場所で公演されてたんですか?
吉村 神奈川合唱団は巡回で公演したり、多かったのは紅葉坂の音楽堂かな。日本の歌声に造船を代表して出たり、造船の歌声を鉄鋼と一緒に歌ったりしたこともあったね。

これからの労働運動を担う若い世代に伝えたいことは?
吉村 我々が若い世代を育てなきゃならなかったけど、そこだけは手を付けられなかった。残念だけど。とにかく正規の労働組合がこんな状況だからね。受け皿が必要だよね。ただ、労働運動は金になんないんだよな。

分裂後も少数派組合として闘ってきた経験から、どんなことを若い世代に託しますか?
吉村 あれは自分の生きざまで一緒になった連中だからね。その時の軽い気持ちでなったわけじゃなくて、自分がどうやって生きるかということで選択しているから組合を辞める人は少なかった。

それが本当の労働組合ですよね。長時間ありがとうございました。お体お大事にしてください。