センターを支える人々:谷本敏弘(元事務局長)

センターとの付き合いは、ゼネ石(ゼネラル石油)に入って、安全問題が発端だったね。京浜コンビナートで新しい工場、新しい時代の労働者だったけれども、解雇撤回闘争や分裂攻撃の中で段々体の調子が悪くなる人が出てきて。ハイオクタン価ガソリン(高オクタン価ガソリン)に添加した四アルキル鉛、それが気体になって、不眠や震えのくる中毒者が出たんだ。まっすぐに歩けない組合員がでてきたこともあって、これはおかしいということになり、1975年11月に13名の集団の労災申請をした。とにかくなんとしてでも労災にさせるということで、毎週土曜日、当時は川崎南監督署や労働基準局(現労働局)も午前中は開いていたから、労災認定のための交渉に行った。12名の集団解雇もあり、また大気汚染の公害問題もあり、工場から公害を出すなという運動も並行してやった。自分たちだけでは勝ち取れないから、いろんな組合との付き合いをし、支援要請行動も行った。
一番大変だったのは、医者。「鑑定医」がネックだった。会社の言いなり、つまり御用医しかいなかったので、会社の嘱託医の自宅まで押しかけたこともあった。私たち労働者の側に立った医師の意見書が重要で、協力してくれる医者探しが大変だった。その頃、日本鋼管(その後全造船日本鋼管分会を結成)の早川(現港町診療所事務局長)解雇、小野(センター元専従。故人)解雇や労災認定闘争問題と付き合いが始まった。特に造船産業では毎年100?200人労災で死んでいたから労災職業病は大きな関心事でもあったんだ。そこで、いろんな人に呼びかけた結果、専門の相談ができる「駆け込み寺」が必要という話が持ち上がり、センターを立ち上げた。鶴見の事務所に掲げてあるセンターの看板プレートは、私が夜勤明けに作成した。未だに残っているのは感慨深いです。

◆センターを立ち上げてからの苦労話などをお聞かせください。

まず立ち上げる時に「どのようなセンターにするのか」ということを議論した。当時、総評(日本労働組合総評議会)に日本労働者安全センターがあったからね。「安全センター」とするのか、それとも「労災職業病センター」とするのか。そこで、すでにたちあがっていた関西労働者安全センターに行き、視察をした。関西センターには全金南大阪田中機械の闘いや労災認定闘争があって、協力していた松浦診療所もあってね、ここを神奈川のセンターの一つのモデルとしたんだ。
議論した結果、労働運動としての安全問題、労災認定闘争にしようということで「労災職業病センター」とした。準備会とか面倒だったので、すぐに事務所を借りた。それが、現在も事務所としている鶴見のサンコーポ豊岡でね。当時は解雇者がいたから寝泊りもしていたね。立ち上げた時の最初の集会は120名来たね。やはりセンターとしての信用を得るためには、相談に来たら絶対に労災を認めさせるということをモットーにして頑張った。でも最初の敗北は大島文雄さんだった。日本鋼管の鉄での労災事故(夜勤労働で、クレーンの上で脳梗塞を発症)だったけど、労災不支給になってしまった。でも後に日本鋼管に損害賠償裁判を起こして勝ち取ったんだよね。

ゼネ石労組の解雇問題は1978年1月に解雇撤回で解決。四アルキル鉛中毒の部分は監督署で不支給になったけれども不服審査で「有機溶剤中毒」として申請者13名のうち6名の労災認定を勝ち取ったんだ。

医師の問題では、けい腕や港湾労働者の港湾病認定で川崎の幸病院の今井重信先生(現在湘南中央病院会長)にもお世話になった。この港湾の職業病闘争の事から全港湾横浜支部の協力で1979年8月に港町診療所ができ、労働科学研究所にも関係していた天明先生が所長になって、それで随分楽になったんじゃないかな。この頃はゼネ石の仕事も忙しくなってきて・・・。
当初、全港湾の横浜港分会出身の事務局長が初代のはずだったんだけど、すぐに辞めてしまってね。私は2代目事務局長です。仕事の点では第一組合いじめというのもあって仕事をわざとさせないようにされていたから暇だったんだよね。だから事務局長としての活動も可能だったんだ。でも、あの時は大変だったなぁ。12名の解雇者を食わせないといけなかったから。組合分裂もあり、1000名いた組合員は100名と少なくなっていたからね。我々ゼネ石労働者から毎月カンパを徴収してやりくりしていた。それにセンターの専従も食わせなければならなかった。相談を見つける(自分たちが生き延びる)ためにもいろんなことをやった。主に造船かな、死亡記事を見つけて、労災の可能性あると思えば、名前わからないから火葬場に行って探して見たり、下請けの被害の記事を見つければ、なんとか探しあてて話を聞きに行ったりとかもやったね。今では個人情報の問題あるからムヅカシイかと思うけど。大学の学園祭や看護学校に行って労災職業病の講演会なども企画したよ。それで労災職業病講座を仕掛けて大学に行ったら、興味を持ったということで学生が一人きたんだよね。それが古谷君(全国安全センター連絡会議事務局長)だった。大学新卒で雇ったのは古谷君が最初だったよ。あと、地域にビラまきやポスターを電柱に貼ったなぁ。バケツに糊入れて夜中に・・・。
生活保護受給者にも話しを聞きに行ったこともあったよ。なんで生活保護になったのかと。例えば怪我とかであれば労災に結びつくところもあったしね。

◆現在のセンターに期待することをお聞かせください。

やはり個別の相談対応にとどまらないで、その労災問題に対してどういう風に取り組むのか、例えば過労死なら過労死をどのようになくしていくのかというような問題意識をもって、運動を進めるべきじゃないかな。課題ごとにセンターなりの方針を掲げて、相談活動を展開することが課題だと思う。
そういえば一時金が出てるんだって? 立派なもんだ。自分の事務局長時代は給料遅配はざらだったので。
【聞き手/池田】