アスベスト肺がん逆転労災認定
本誌で報告した某大手電機メーカーで働いていたOさんのアスベスト肺がん労災認定であるが、実は一部不支給の決定がされていた。その一部の不支給決定に対して異議申し立て審査請求をしていたが、このたびこちらの主張が認められ原処分取り消し支給決定されたので改めて報告する。この誤った不支給決定を行った原処分庁は川崎北労働基準監督署(都築修署長)である。【鈴木江郎】
電気炉製作作業等でアスベストばく露
Oさんは1957年から1977年まで約20年間、某大手電機メーカーで真空管製造のための電気炉製作およびメンテナンス作業においてアスベストにばく露した。Oさんは、主に真空管を製造する電気炉で炉そのものを製作したり保守点検作業を行っていたが、電気炉の内側には断熱・絶縁材として石綿板を多く使用していた。この電気炉の製作作業およびメンテナンス作業において、石綿板を倉庫から持ち出し、電気炉のサイズに合わせて切断や穴あけ作業を行い、炉内に貼り付ける作業が必須であるためこれらの作業においてアスベストにばく露。
また、電気炉に接続しているガラス管が高温になることから、ガラス管に石綿リボンを巻き付ける作業を行ったり、倉庫内で石綿板の在庫管理なども行っていたため、様々な作業においてアスベストに曝されてきた。
労災が一部不支給に
これら電気炉製作や保守点検の現場では電動ノコギリなどを使用して石綿板の切断等を行っていたため、アスベスト粉じんが多く舞っていたが、会社からは防護のためのマスクや防護服などは何も支給されなかった。
このような事から、Oさんはアスベストに多量にばく露し「肺がん」を発症。労災請求するに至ったが、アスベストばく露したことの医学的な裏付けである「胸膜プラーク」が確認され、また作業歴においてもアスベストばく露は間違いないので「アスベスト肺がん」として労災認定された。しかし、冒頭にも触れたように、一部、労災不支給の決定が出てしまった。
療養および検査の過程
ここで時系列でOさんの療養および検査の過程をみていく。まず2011(平23)年8月10日に国立相模原病院でCT検査を行い、「右肺尖部結節影」と診断された。同年12月2日に再度CT検査し、「陰影縮小傾向のため炎症性変化」と診断され、終診となる。しかるにOさんは胸部に違和感がある中、既に取得していた石綿健康管理手帳の定期検診を2012(平24)年2月16日に受診。「右上肺野結節状陰影・要胸部CT追加検査」と診断され、同年3月10日に胸部CT検査を行い、「右肺S2に結節影を認める・異常あり」と診断された。その後、同年4月9日に十条通り医院の斉藤竜太医師に受診。「(右肺上野の)肺がん」と診断され、翌10日、北里大学病院で「肺がん」確定診断、手術を行い、現在療養中である。
傷病名が異なるので認められないと、労基署
Oさんは、上記の通り、国立相模原病院で「右肺尖部結節影」と診断された2011(平23)年8月10日を「アスベスト肺がん」発症日として労災請求したが、川崎北労働基準監督署(三浦勉調査官/都築修署長)は、2012(平24)年4月10日の北里大学病院での「肺がん」診断日を発症年月日とし、国立相模原病院における療養期間を労災不支給とした。つまり、国立相模原病院で療養していた2011(平23)年8月10日~同年12月2日の療養費および休業補償請求について不支給とした。川崎北労基署の不支給決定の理由は、以下の通り。
『平成23年8月10日から平成23年12月2日までの期間に、相模原病院において、複数回精密検査を行っている事は確認できるが、同院から提出を受けた意見書では「平成23年8月のCTで右上葉に結節状病変を認めたが、同年12月のCTで消退傾向にあったため炎症性変化と考える」との主治医意見が記されている。また、傷病名は「炎症性変化」であり、平成24年4月9日に十条通り医院にて診断がなされた「肺がん」とは異なるものである。従って、請求人は平成23年8月10日から平成23年12月2日までの相模原病院での受診の時点では、石綿との関連が明らかな疾病を発症していたとは認められない』と結論付けた。
「一貫して病変があった」と異議申し立て
さて、上記の川崎北労基署の国立相模原病院での療養についての不支給決定は妥当なのであろうか?
先に触れたように、まず国立相模原病院のCT検査で「右肺尖部結節影」と診断され、その後、何故か「消退傾向で炎症性変化」と診断されたものの、2ヶ月後の石綿健診では同じ右肺上野に「結節状陰影」ありとされ、その後、同部位の「肺がん確定診断」という経過をたどっている。これは最初に国立相模原病院で受診したときから右肺上野に一貫して病変があり、最終的に北里大学病院で「肺がん」の確定診断がなされたと考えるのが妥当なのではないだろうか。そう考え、国立相模原病院の療養期間の不支給決定は誤りであるとして異議申し立て審査請求を行った。
十条通り医院の斉藤医師が、意見書を提出
審査請求において私たちは次の通り、主に2つの主張をした。
まず、国立相模原病院で診断された「(陰影の)消退傾向で炎症性変化」という診断の妥当性について。そして石綿健診での診断をふくめ、一貫して「右肺上野」に「異常あり」の診断がなされてきた事実である。
「(陰影の)消退傾向で炎症性変化」については十条通り医院の斉藤竜太医師が「意見書」を提出した。斉藤医師は意見書でこう述べている。『(国立相模原病院の診断は)「炎症性変化」とだけ述べて「炎症性変化の消失」まで確認していない。肺がんの場合、よくがんの周囲に炎症性変化を伴うことがある(随伴性肺炎)。この随伴する炎症性変化が消失していくのである。従って、結節性病変があり、かつ炎症性変化もある場合、炎症性変化が消失するまで追跡しなければならない。もし炎症のみであれば病変は完全に消失し、がんに伴ったものであれば炎症が無くなり、がんの所見のみが現れることになる。従って相模原病院の意見書が述べる「炎症性変化と考える」と結論することはできない』。
石綿健康管理手帳の診断結果
そして川崎北労基署の調査では相模原病院で「(陰影の)消退傾向で炎症性変化」と診断とされたすぐ2ヶ月後に受けた石綿健診における同部位の「結節状陰影あり」の診断を全く考慮していなかった。「結節状陰影あり」という石綿健康管理手帳の診断結果の写しを資料として提出していたにもかかわらずである。
国立相模原病院の初診から北里大学病院での「肺がん」確定診断まで、一貫して同部位に「病変あり」との診断がされているので、普通に考えればこれらは継続した病変であり、同一疾病(肺がん)として認められるであろう。しかし川崎北労基署は、国立相模原病院での療養は「関係なし」として不支給決定を行うのであるが、それならそれで丁寧な調査を行った上で具体的な根拠を基に不支給とするべきであった。つまり、各医療機関において一貫して「病変あり」の診断がある中で、異質に浮いている2011年12月2日の国立相模原病院での「(陰影の)消退傾向で炎症性変化」という診断について、その診断そのものが妥当かどうかの疑問を持ち、調査の対象とするべきあった。しかし三浦調査官はこの診断を安易に鵜呑みにして、調査を行うことをせず、簡単に不支給決定を出してしまったのである。
審査請求において、私たちはこれらを強く主張した。審査官も右記「病変の一貫性」に着目し、再調査すると、次のような事実が浮かび上がってきた。
画像描出不備により、陰影が消えたと判断
以下、原処分取り消しの「決定書」から引用する。『当審査官が鑑定を依頼したところ、鑑定を行ったD医師は、「結節影に、該当する肺動脈や気管支の末梢枝が病巣に関与しており、肺がんを疑うべき所見と考えられるところ、同一部位であるにもかかわらず、陰影が消えてしまって見えることが果たして真実なのか撮像条件あるいは描出条件を検討したところ、CT画像は、10ミリごとの2ミリ幅厚さでの再構成画像であり、いわば、8ミリ分の画像の再構成がされずに描出されていたものであった。そこで、縦隔条件画像を肺野条件画像に再描出したところ、平成23年8月とほぼ類似した結節病変が確認でき、いわば画像描出の不備のために、陰影が『消えた』と判断されてしまったものと推察される」として、「本件における当該病変は、平成23年8月10日以降北里大学病院での手術時まで、一貫して存在していたというべきである」と所見している。したがって(川崎北労働基準)監督署長が「炎症性変化」であり、「肺がん」とは異なるものであるとして支給しないとした処分は誤りであり、これを取り消さなければならない』
上司は誰も「なんか変だな」と思わないのか
つまり、CTの画像では10ミリのうち2ミリ分の画像だけを描出して診ていたので、残る8㍉分の画像が見過ごされた。そしてその見過ごされた画像に「肺がん」の陰影があったのだが、国立相模原病院の担当医は2㍉分だけの画像をみて「(陰影の)消退傾向」だと診断してしまい、川崎北労基署の担当官の調査でも、全体を通じての病変の一貫性に関心を寄せることもなく、『傷病名は「炎症性変化」であり、「肺がん」ではないので不支給とする』と、あまりにも安易に結論付けてしまったのが、今回の川崎労働基準監督署の間違いの根幹である。
しかもこの不支給決定は当然のことながら、都築修署長以下、次長、課長、係長の決裁も降りているから問題は根深い。上司は誰も「なんか変だな」と思わないのだろうか?何のための決裁システムなのか? 誤診した国立相模原病院の担当医はそもそも大問題だが、それに疑問を持たず安易にやり過ごしてしまう労働基準監督署とはいったい何なのか?何のための調査権限なのか?