じん肺根絶運動とベース裁判までの経過

じん肺根絶運動とベース裁判までの経過
米海軍横須賀基地石綿じん肺裁判が、いよいよ大詰めを迎えた。ここに至るまでの横須賀における運動の経過を報告する。

1.患者の掘り起し
 一九八二年五月八日、読売新聞の夕刊トップ記事で、横須賀共済病院の三浦医師らの「基地、造船関係で石綿肺がんが多発」しているという研究調査結果を報道した。

全造船浦賀分会(現、全造船住友重機械・追浜浦賀分会)、神奈川県勤労者医療生協・港町診療所、神奈川労災職業病センターは、さっそくこの問題に着目し、住友重機の退職者を中心に結成されている「浦賀退職者の会」の協力を得て、死亡者の追跡調査やじん肺と石綿肺についてのアンケートを実施した。このアンケートの結果、粉じん職場の経験者に、息切れ、せき、たん等の自覚症状の訴え率が異常に高いことが明らかになった。更に、健診希望者に対しては、港町診療所においてじん肺・石綿肺に関する健診を行い、じん肺の管理区分申請や労災申請を行なった。その後、基地退職者に対しても、「じん肺・石綿肺健康アンケート」が行われ、石綿を扱った人に、呼吸器系の自覚症状を訴える人が多いことが明らかになった。

 一九八四年からは「じん肺・石綿肺自主健診」の活動が始まり、港町診療所等が協力して、毎年一一月、横須賀労働福祉会館で、八九年まで行われた。健診の対象は、当初の浦賀退職の会会員から、基地の退職者にも広げられた(また、シルバー人材センターの会員も受診)。この健診活動を通じて、じん肺管理区分決定を受けていく中で、じん肺の治療が必要な方も出てきた。

2.患者の会の結成

 八五年三月、全造船浦賀分会が、「じん肺・石綿対策委員会」を設置、神奈川労災職業病センター、港町診療所も協力し、学習会や総合的な対策の研究、行政への働きかけ等の活動を行った。これらの活動とじん肺の労災申請に取り組む中で、浦賀退職者と基地退職者の「要療養者」(労災補償受給者)が急増、被災者団体結成の機運が燃え上がり、八五年一一月、「横須賀地区じん肺被災者の会」(現、「横須賀じん肺被災者の会」)と「全国じん肺患者同盟横須賀支部」(「会・支部」)が結成された。会・支部の結成は、じん肺患者みずからが、じん肺根絶の運動に立ち上がったことを意味し、運動を発展させる中で、裁判闘争が生まれてきたと言える。八八年七月、住友を相手に、八人が横浜地裁横須賀支部に、損害賠償裁判を提訴した。

3.(住友)じん肺裁判闘争と支援運動

 裁判の進展に伴い、横須賀地域での支援体制作りが課題になる中、九一年一〇月、「なくせじん肺全国キャラバン」横須賀行動の夜の集会で、「横須賀石綿じん肺訴訟を支援する会」が旗揚げされた。「支援する会」は、横須賀地区労傘下の四組合が幹事となり、当センターが事務局を担い、原告団・弁護団と歩調をあわせ、支援運動を展開した。

 裁判の支援運動は、裁判傍聴、駅頭でのビラ配布、「支援する会ニュース」やリーフレットの配布を通した情宣活動、ビデオの作成と上映会、署名活動、等々。「なくせじん肺全国キャラバン」への参加 は、大きな意味を持った。横須賀での大きなイベントは、九二年一一月、じん肺キャラパンの一環として、ヴェルクよこすかのホールをいっぱいにした「じん肺劇」、九六年六月、社会派シンガーソングライター横井久美子さんを招いて、ベイサイドポケットで行われた「石綿じん肺訴訟を支援するコンサート」の二つ。このコンサートには四〇〇人以上がつめかけ、じん肺訴訟の意味を多くの人に訴えることができ、裁判の早期解決へ、大きな弾みをつけたと言える。

 また、「じん肺キャラバン」は、横須賀の運動を発展させただけでなく、全国との連帯を促進させた。九三年に行った個人署名は一万九千名分、九五年の団体署名では一八五〇団体分を集約した。

 住友じん肺訴訟は、九六年九月より和解交渉に入り、九七年三月に和解が成立。この中で、全造船浦賀分会が「救済制度」を確立したことは大変意義のあることである。

4.住友の裁判からベース裁判へ

 住友の石綿じん肺裁判の勝利的和解の後、全造船浦賀分会や横須賀中央診療所、センターなどで、今後の運動について話し合い、電話相談やじん肺健診等の、掘り起こし活動を行なうことになった。

 九七年七月の「じん肺・石綿健康被害ホットライン」には、約一〇〇件の相談が寄せられた。じん肺関連の相談が半数以上を占め、石綿による肺ガンや中皮腫の相談も一二件あり、まだまだ多くのじん肺被災者が労災認定すら受けていないことを痛感した。

 また、ホットライン中に基地退職者から「住友では退職者への上積み補償制度があると聞いたが、基地ではどうか」との質問があった。全駐労に問い合わせると、労災上積み補償制度はないが、日米地位協定に基づいて請求して認められたケースがあるとのこと。このことから、上積み補償請求の取り組みを進める必要性が議論され、住友の裁判支援運動を継続、発展させる形で、「じん肺・アスベスト被災者救済基金」(「基金」)が、九七年一一月に設立された。基金は、じん肺・石綿疾患の労災申請や認定の相談、労災上積み補償請求、また、じん肺根絶の運動を会・支部とともに担った。

 九八年四月、ベース退職者二〇名が防衛施設庁へ日米地位協定に基づく上積み補償の請求を行った。同年九月、防衛施設庁は不当にも時効を理由に請求を棄却。これを不服とした一六名が、九九年七月、横浜地裁横須賀支部に損害賠償を求める裁判を起こし、横須賀で再び裁判闘争が始まった。この裁判は、国を被告とする全国初の米軍基地のじん肺裁判であり、じん肺根絶を目指す上でも大きな意義を持っている。裁判を始めるにあたり、原告団や弁護団、基金を中心とした支援者が話し合う中で、「裁判を早期に、勝利的に解決するための新たな支援体制」の必要性が提起された。そこで裁判提訴に合わせ、「米海軍横須賀基地石綿じん肺裁判対策委員会」を発足。裁判は、こうした万全の体制の中で闘われてきた。

 多くの支援を得ながら闘ってきたベース裁判。二〇〇二年春、いよいよ結審のときが近づいてきた。

◇「持続する志」ベース裁判第二次訴訟準備中

 1999年7月に提訴した米海軍横須賀基地(ベース)石綿じん肺裁判。基地で働き、石綿などの粉じんのためにじん肺や肺がんなどに罹患した基地退職者と遺族の闘いは、いよいよ第一審(横浜地方裁判所横須賀支部)の決着に向かう。

 それにあわせ、現在私たちは第二次訴訟団の結成を準備している。その中の一人である中山博仁さん。中山さんは、84年6月にSRF—X11(船穀工場)で定年になった。船舶設備取り付けを行なう職場である。後述のとおり、中山さんは85年に労災認定された。それが今、なぜ裁判に続こうとするのか。それを理解するために、横須賀でのじん肺の取り組みの始まりから現在に至る20年間の経過を簡単に振り返ろう。

◇それは造船退職者健診から始まった。

 横須賀での石綿・じん肺に関する本格的な取り組みは、八二年一一月の全造船浦賀分会の退職者の会総会でのアンケートが始まりだ。同じ年の五月に横須賀共済病院の三浦先生による研究が読売新聞に掲載されたのを契機に、住友浦賀造船所での在職中の作業実態と退職した現在の自覚症状を問うたものだった。その後、八三年三月に桜木町から現在の神奈川区金港町に移って間もない港町診療所で、四七名がじん肺健診を受診。六名が労災認定される。このことは、住友の退職者に道をつけると共に、基地の退職者にも照準を当てた。

◇基地の街、ヨコスカで

 何と言っても横須賀は基地の街だ。基地の退職者は、当時最長で三六ヶ月間の失業手当が支給された。そのうち二六ヶ月は駐労福祉センターでの就職あっせん。毎月三回は同センターに集る。その場を活用できないか、駐労福祉センターは全駐労労働組合とも関係がある。そこで浦賀分会同様のアンケート実施を依頼、快諾して頂いた。県内一六ヶ所七〇〇〜八〇〇名を対象に、労災職業病センターのスタッフや天明所長が、亡くなった方の肺の切片標本などをたずさえて、石綿の危険性とじん肺問題について、説明し、アンケートへの協力を依頼。三六三名が回答してくれた。

 その後、三年以上前の退職者にはリストを元に郵送で、現役の方には全駐労を通じて直接配布。その結果、トータル一二三五名からの回答を得た。言うまでもなく、退職者からは石綿、粉じんによる影響を顕著に見てとることができた。

 それと並行して、八五年五月末までに、基地退職者五二名が港町診療所で受診。管理4が二名、合併症三名の計五名が労災認定された。

 この時、中山さんは管理2の続発性気管支炎で労災になり、その後、傷病補償年金に移行。現状では労働基準監督署は、不当にも管理4以外はまず年金に移行させないが、この頃はまだ当然のことが行われていたわけだ。

◇じん肺健康診断と「被災者の会」結成

 浦賀退職者については、八四年一一月に私たちと協力して、国立公衆衛生院が退職者の会総会で、石綿による被害状況を調べるためのアンケートと健診を実施。この時、比較のために横須賀市高齢福祉事業団(シルバー事業団)にも呼びかけて,あわせて一六〇名が受診。以後、基地退職者も含む、横須賀の退職者をカバーするじん肺健診の形ができていった。

 そして八五年一一月三日、「じん肺患者同盟横須賀支部」、および「横須賀地区じん肺被災者の会」が結成された。中山さんはその結成メンバーの一人。ベース裁判の第一次原告団に参加。二〇〇〇年八月、志半ばで亡くなられた蓮田孝一さんが、じん肺患者同盟横須賀支部の初代支部長になった。同じく第一次訴訟団の一人、出浦一さんは、当時のことを「蓮田さん、小岩さん、東松さん(いずれも故人)、それに中山さんと一緒になって、今度じん肺の被災者の会ができたのでよろしく、と全駐労横須賀支部に行きましたよ。ただあの頃は色よい返事がなくてね」と懐かしむ。

◇住友じん肺裁判とベース裁判

 八六年一〇月、米空母ミッドウェーの大改修の時に、大量の石綿廃棄物が路上に放置された。このことが引き金となり、同年四月に労災職業病センター所長に就任した田尻宗昭さんの力で、石綿の危険性が全国的に注目される。

 八八年七月、住友を相手に、退職者八名がじん肺損害賠償裁判を提訴。「住友に続いて基地も裁判を」と、強く主張していたのが、蓮田さんと小岩さん(被災者の会世話人)。しかし小岩さんが急死。「次」は立ち消えとなってしまった。小岩さんの死も大きかったが、その頃の全駐労の消極さや、何よりもベース退職者の気持ちがまだまだそこまでいっていなかったのだ。軍事基地の中で働いてきた、ということもあるのか、やはり権利を主張するという当り前のことが、すんなりとはいかなかったのだ。

 八九年九月、横須賀中央診療所オープン。
 九四年三月に港町と横須賀中央診療所で実施した住友と基地の退職者の健診受診者がのべ八〇〇名を超える。

 九六年三月、住友じん肺裁判が勝利和解。
 九七年七月、じん肺アスベスト被災者救済基金発足。
 九八年四月ベース退職者二〇名が日米地位協定に基づくじん肺上積み補償請求。同年九月に時効を理由に全員不当却下を受けて、九九年七月にベース裁判提訴。

◇じん肺に時効はない

 昨年一二月一六日、横須賀の上町にある中山さんの自宅を訪問した。二週間前、第二次訴訟のための説明会に、本人、家族ら約四〇名が集まったが、中山さん自身は外出できず欠席。そのために直接伺うことにしたわけだ。息子さん二人と一緒に説明をする。

 原告になる意志を明らかにした上で、中山さんは、「もっと早く本当はやるべきだったんですよね」と語る。一二年前の住友裁判直後のことは前述した通り。そして九九年の提訴時には、実はお連れ合いが入院、その後亡くなられるという悲運に見舞われた事情がある。それを乗り越えての決意だ。「でも、じん肺管理区分が決定されてから一〇年以内という時効のことは気になりますよね」とご長男。労災認定されてからすでに一六年になる。「そう、そこです。じん肺に時効はないということをぜひ認めさせたい。そのためにも裁判を闘う意義はあると思います。亡くなられた蓮田さんもそうですし」と私たち。「それをぜひ打ち破ってほしいです」と皆さん。

 二〇年近い熟成期間をかけて、米軍基地を相手にした石綿じん肺の責任を問う闘いは、二〇〇二年さらに大きくなる。