センターを支える人々:今井明(写真家)

東京総行動のニチアス本社前行動で、よこはまシティユニオンの平田淳子さんと立ち話をしなければと少し後悔をしている。その話から、センターの原稿のお鉢が回ってくるとは・・・。

1980年代後半から、神奈川労災職業病センター機関誌の印刷に関わってきた。郵送されてきた原稿を一枚一枚台紙に貼り付け、版下を作成して製版をする仕事である。版下作業の楽しみは最初の読者として原稿を読むことだ。それぞれの顔を思い浮かべながら「事務局だより」を読む。手間がかかる作業で作られた「新聞より」は、それだけをまとめても日本の労災職業病の記録になる貴重な記事に目を通す。今は、原稿はメールで送られ、版下、製版もパソコンから行うようになって、手張りの版下作業の仕事はなくなった。

1970年代後半から労働運動などの現場で写真を撮り始めた。数えると40年になっていた。その当時、労働運動雑誌「労働情報」(1977年創刊)の事務局員であった。編集は未経験なので、手書きの原稿を一字一字数える行数計算から始まった。何度か編集作業を繰り返すと、写真の手配が大変なことに気づいた。そこで単純に「写真がなければ、現場に撮りに行けばいい」と思い、行動に移した。

その頃は、労働戦線再編に向けた攻防が激化していた。郵政では、年賀状を飛ばす反マル生越年闘争で大量解雇処分。沖電気の大量指名解雇。造船産業での大量人員整理攻撃等と多くの労働争議が闘われていた。さらに、東京のペトリカメラ、パラマウント製靴、大阪の田中機械。そして神奈川の東芝アンペックスでは、労働組合が工場を占拠して自主生産を行なっていた。その現場に駆けつけ、写真を撮り始めた。当時の東京総行動は大企業・銀行の本社・本店が集中する大手町を1〜2000人の労働者が駆け巡っていた。大企業本社ビルの中でデモ・座り込み・シュプレヒコールを上げる。その中に、日本鋼管と解雇争議を闘っていた小野隆さんや全造船浦賀分会の労働者の姿があった。そこで多くの人と出会い、そのつながりで団交、社内行動等の現場も記録した。今でも写真を撮り続けることができているのは、現場で出会った人びとと、そのつながりあったからと思う。それが、横須賀から始まったアスベスト被害者の記録につながっている。

2000年、港町診療所所長室で早川寛さんと西田隆重さんから「アスベストを撮りませんか」と切り出された。米海軍横須賀基地石綿じん肺訴訟を支援するために、アスベスト被害の実態と被害者の証言を記録する企画提案であった。具体的には、裁判の進行に合わせて写真展を開催すことになった。アスベストを撮り始めたのは、60〜80年代に大量に使用されたアスベストが長い潜伏期間を経て被害が顕在化する時期に重なり、2002年に村山武彦早稲田大学教授(当時)が「悪性胸膜中皮腫で今後40年間に10万人が死亡」すると警鐘を鳴したアスベスト被害急増が現実になっていく現場を記録することになった。

横須賀での撮影と写真展開催後は、首都圏の建設などのアスベスト被害者、さらに2004年「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」設立とともに、船員、旧国鉄など新しいアスベスト被害の患者と家族を撮影することになった。そして2005年に大手機械メーカー・クボタ旧神崎工場(兵庫県尼崎市)周辺住民のアスベスト被害が明らかになった。工場内外に拡がったアスベスト被害の実態は「クボタショック」として全国を震撼させた。神奈川でも、センター事務所直近の旧朝日石綿(現エーアンドエーマテリアル)工場周辺住民被害が明らかになった。「旧朝日石綿住民被害者の会」が結成され、エーアンドエーマテリアルと補償交渉、横浜市への要請などが取り組まれた。奈良、岐阜羽島などのアスベスト工場周辺住民も声を上げた。戦前からの石綿紡織地域であった大阪・泉南では国家損害賠償訴訟が闘われ、国の企業責任を認める最高裁判決を勝ち取っている。アスベスト被害の企業責任追及と補償を求めてアスベストユニオンも結成された。

神奈川でのアスベスト問題への取り組みは早かった。1984年に住友・浦賀退職者の会が「じん肺・石綿肺自主健診」実施、「じん肺被災者の会」が結成された。1988年には、住友重機械を被告に「住友石綿じん肺訴訟」を提訴、1997年に勝利和解。その後に「じん肺アスベスト被災者救済基金」が設立され、米海軍横須賀基地従業員のアスベスト被害を掘り起こし国相手に訴訟を行った。さらに、1986年には田尻宗昭さんを先頭に、横須賀市内への米空母ミッドウェイのアスベスト不法投棄問題に取り組んだ。全国的にも先駆的な闘いであった。

これらの取り組みを可能にしたのは、アスベスト被害の患者、家族・遺族の組織、労働組合、医療機関、労災職業病組織(センター)と、アスベスト被害救済組織が重なり合った総合力があったからと思う。そして、その運動の経験と成果が、その後、アスベスト問題を全国に拡げる上では大きな力になっている。この神奈川の経験はもっと多くの人に知ってもらいたい。いま、神奈川で「アスベストの記憶を記録する」企画が始まっている。すでに天明佳臣先生、住友の組合員・下請け労働者と家族からのインタビューが行われている。今後のアスベスト問題の取り組みに、神奈川の経験と記憶の伝承は貴重な役割を果たすと思う。