センターを支える人々:西山和宏(ひょうご労働安全衛生センター)
ひょうご労働安全衛生センターの設立は2000年2月です。1995年1月に発生した阪神淡路大震災により、倒壊した建物等の復旧・復興工事が急ピッチで進められるなか、兵庫県では労働災害が増える傾向にありました。1980年代までは兵庫安全センターが存在していましたが、解散してしまったため、安全衛生問題を専門とするセンターが求められていました。そのため、1年間の準備期間を得て、センター設立の運びとなりました。神奈川に比べ、ひょうご労働安全センターの歴史は20年弱でしかありません。
私は、設立当初から事務局長の任に着きましたが、一人でも加入できる労働組合・あかし地域ユニオンの書記長としての活動も行っていました。当時は、センターの活動が2でユニオンの活動が8という割合でしたが、2005年6月のクボタ・ショックにより活動スタイルは一変し、毎日アスベスト相談の対応に飛び回ることとなりました。
アスベストが取り持つ縁で、神奈川の皆さんとの交流が増え、一緒に活動を取り組む課題も増えました。神戸は港を中心に発展した街ですので、神奈川と共通する点も多く、アスベスト被害者が造船・鉄鋼・港湾・国鉄(JR)に多いことも共通していました。造船・鉄鋼職場における企業補償を求める取り組みでは、早川さんに何度も兵庫まで来ていただきました。当時、造船各社の企業補償制度は、年齢が上がるほどに補償額が下がるというものでした。
被害者の方が「沢山の補償が欲しければ早く死ねということか!」と声を大にして訴えられた姿は印象的で、三菱重工、川崎重工、IHIとの団体交渉に参加し、年齢格差を無くす取り組みに参加できたことを嬉しく思っています。そして、下請け労働者の補償問題において、住友重機の原告団と岡山の山陽断熱の原告団が、横浜中華街で美味しい料理を食べながら交流を行ったことも楽しい思い出です。
また、国鉄(清算事業本部)への責任追及と補償を求める訴訟(大前さんと小林さん)が横浜地裁に提訴され、神戸地裁でも国鉄鷹取工場に勤務し腹膜中皮腫を発症された桑名さんのご遺族が提訴し、連携・連帯しながら3つの裁判を闘いました。前事務局長の西田さんや池田さん、そして国労組合員の皆さんとの交流も深まり、3つの裁判の勝利判決を力に補償制度を新設させることになりました。
他にも、アスベストユニオンの活動と通じて、文さん、川本さんや平田さんと一緒に補償水準の底上げに向けた取り組みを進めています。交渉や行動における神奈川の皆さんの爆発力(撃破力)から見えるのは、働く人・被災者への徹底した優しさです。鈴木さんとは、中皮腫サポートキャラバン隊の取り組みで一緒になる機会が多くあります。被災者の皆さんに、ご家族の皆さんに、少しでも有益な情報を届け、励まそうとする姿勢に頭が下がります。
兵庫では、3年前に「NPO法人アスベスト被害者救済基金」を立ち上げました。これも神奈川の「NPO法人じん肺アスベスト被災者救済基金」のパクリです。同趣旨の2つの団体が存在することで、この間「全国一斉」と銘打って、毎年ホットランを開設することができ、広くアスベスト被害者の掘り起こしへと繋がっています。
アスベスト問題以外にも、精神疾患やパワハラ問題、公務災害問題など共通して取り組んでいる課題があります。個別の問題を精一杯取り組みながら、運動を拡げることで、全体に共通する課題も見えてきます。なかなか前進しないことも多くありますが、相手が大きく強いほど闘いは楽しいものです。神奈川の皆さんと一緒に取り組みを進めたおかげで、勝利の美酒のうまさを覚えてしまいました。次の一杯を求め、日々飛び回っている毎日です。