センターを支える人々:澤田 慎一郎(全国労働安全衛生センター連絡会議)

神奈川労災職業病センターをはじめ、各地の労災・職業病問題に取り組む地域センターから構成されている「全国労働安全衛生センター連絡会議」に私は所属しています。京都で大学生活を過ごしましたが、私が大学に入学したのは2005年でした。いわゆる「クボタ・ショック」と呼ばれる尼崎市のクボタ・旧神崎工場の周辺に住む一般住民の方のアスベスト被害の発覚を端緒として、全国的に被害の実態が顕在化し始めた年でした。

高校時代に真面目に授業を受けたことがなかったのですが、大学に入学後は一応、新聞に目を通す習慣だけはつけていました。2006年になってもアスベスト問題の記事は連日のように目にしていた記憶があります。そのような背景もあったことから、大阪・泉南地域のアスベスト被害の問題を卒業論文で扱いました。裁判の傍聴などにも行っていた関係で、当時から関西労働者安全センターの片岡明彦さんとは顔見知りでした。卒業して、就職して半年ほど経った頃、片岡さんからお声かけして頂き、全国センターで仕事をするようになりました。

ここ何年かは、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の事務局としてアスベストの労災相談を受けるなどしてきました。昨年からは、神奈川センターの川本さんが書記長を務めるアスベストユニオンの執行委員として参加させてもらっています。また、中皮腫・サポートキャラバン隊の活動も少しお手伝いさせて頂いている関係で、胸膜中皮腫で療養している右田孝雄さんをはじめとする患者さんたちの活動に接する機会もあります。

アスベスト疾患に関係する労災請求の支援については2005年以降、大なり小なり労働基準監督署をはじめとする関係行政機関や医療機関の対応環境も整備されていますので、労災事案一般の中では比較的、認定されやすい状況にあるかと思います。そのような中でも、原因のほとんどがアスベストばく露であるとされている中皮腫患者の方でも原因がなかなかつかめずに労災認定されない患者さんもいます。そのような患者さんの中には、未就学児や就学児をかかえる方もおられます。

なかば諦め半分でとにかく請求してもらって結果として認定となるケースなど、こちらが驚いてしまうものもありますが、そのような例はごく一部です。自身の力量不足を痛感すると同時に、関係する制度全体でもう少しどうにかならないものかと感じています。

泉南の裁判支援に関わらせてもらった2007年以降、中皮腫をはじめとするアスベスト疾患は「治らない深刻な病気」というイメージを強く持って患者さんやご家族と接してきました。病気の厳しさは、現在もそのとおり変わらないでしょうが、「治らない病気」というイメージを必要以上に固定化してきてしまったきらいがありました。

中皮腫サポートキャラバン隊の活動に携わる中で、中皮腫以外のがん種やがん全般にわたる支援活動をされている方々とも交流をさせて頂く機会が増え、肺がんなどでは中皮腫と比較にならないほどの治療法の進展があることを認識しました。そのような状況にあっても、患者さんや医療関係者の方々は貪欲にその先を目指している姿も目の当たりにしました。明確な根拠があるわけではありませんが、「治療法の確立に向けて具体的な行動をすれば、必ず道が開けてくる!」との思いを強くしています。

2019年6月に、キャラバン隊の共同代表であった栗田英司さんが他界されました。栗田さんの体調もその1年以上前から良くはありませんでしたので、少し大袈裟な表現かもしれませんが、「栗田さん亡き後の世界」について不安や心配されていた方もおられました。私も少なからずキャラバン隊活動への影響がどうなるのか心配でした。栗田さんの他界から半年以上が経過し、栗田さん以外にもキャラバン隊活動に尽力された方や応援してくださっていた方のご他界が続いています。

では、キャラバン隊活動が低下してきたかというと、決してそうではありません。活動の広がりとともにキャラバン隊活動へ参加する方も増え始めています。1月下旬に沖縄・那覇でアスベストユニオンがサポートする形でキャラバン隊主催の講演会が開催されました。講演して下さったのは鹿川真弓さんという15年以上療養している女性の腹膜中皮腫患者さんです。外に向け自身の体験を語るようになったのはここ数ヶ月のことですが、きっかけは栗田さんとのブログを通じた出会いだったとのことです。ブログを通じて、鹿川さんの経験を話すことは他の患者さんにとって有意義なことだと、栗田さんから話されたと言います。残念ながら、栗田さんは鹿川さんと会う一歩手前で他界してしまいましたが、病床にあっても「最後まで仕事をやり続け、やり切った」とも言えるその姿勢には改めて考えさせられるものがあります。

栗田さんが、九州の女性患者さんや右田さんと出会ったことがキャラバン隊活動につながるきっかとなったように、やはり患者さん同志がつながっていくことでダイナミックな活動が生まれていきます。今後も大いに期待しながら、そのサポートができればよいと考えています。

右田さんが生まれ育ったのは泉南地域に位置する岬町です。右田さん自身は泉南の石綿工場に勤務していたわけではありませんが、日本の石綿産業が勃興した地から、これからも中皮腫患者のピア・サポートネットワーク活動を引っ張っていくであろう方が出てきたことは、全くの偶然かもしれませんが、個人的には泉南とゆかりがあるだけに非常に興味深くみています。泉南訴訟原告団の活動とあわせて、キャラバン隊活動を身近で感じ、みられていることの「面白さ」はなかなか価値あるものと思います。キャラバン隊が今後どうなっていくのか、目が離せません。