人間らしい労働とは何か?「職場ドック」とは何か?

労使双方が安全衛生に取り組み、専門家がサポートする体制が重要

木村 今回は人間らしい労働(ディセントワーク)とは何か?、そして最近提唱されている「職場ドック」とは何か?について、天明佳臣先生にお話をお伺いします。まず、自己紹介をお願いします。

天明 私は外科医と産業医の二足のわらじを履いてやってきたのですが、外科系には有能な医師たちがおりますので、もう20年ほど前からほとんど産業保健の領域での仕事にしぼっています。83歳になりますが、その点ではまだ現役です。
木村 今日は先生の臨床医と産業医という経験をもとに色々お話を聞きたいと思います。まず、「労働安全衛生法」の成立とその背景について教えて下さい。そもそも「労働安全衛生」とは何ですか?

天明 労働安全衛生の「衛生」は「労働安全保健」と言われることが多くなっていますが、働く人たちが安全かつ健康に仕事を続けてゆくための技術です。近年は特にそうですが、医学ばかりでなく環境・心理・人間工学などの学際的な領域をカバーする技術です。むろん労働者保護の視点では法律の専門の人たちも関わってきます。実際の労働現場では私たちの専門技術集団の助言を受けて、事業主と従業員の双方は協力して取り組んでゆきます。その現場での問題接近の手法は、安全保健法規に準拠していれば良いというのではなく、あとでも触れますが労使参加の「包括的自主対応型労働安全衛生」アプローチと言うことになります。

70年代以降、法律や規則だけでは労働者の健康は守られない状況に

木村 「労働安全衛生法」の成立と、その背景について教えて下さい。

天明 労働基準法の第5章安全衛生が独立した「労働安全衛生法」となったのは1972年です。これは世界的な潮流に乗った対応でした。70年代の初頭は、来るべき技術革新の時代に備え多様化するであろう労働のありように備えて、米国、イギリス、ドイツ、フランスなどのいわゆる先進国は軒並み労働安全法の改定を行いました。
安全衛生法規を遵守していれば、労働者の安全と健康は護れるとはいえない。例えば新しい化学物質が毎年300以上も労働現場に入ってくる。むろん、それらの科学物質の急性の毒性については当然チェックされておりますが、慢性影響については必ずしも十分なチェックがなされていない物質もあり、使用現場での注視が必要になるわけです。さらにパソコンのようなIT技術の導入も視野に入っていて、新たな種類の作業負担に対しての遅滞なき対応が現場にできるような姿勢がもとめられます。法規はそうした現場での労使の自主的な取り組みを支援する規程がなくてはならなかったのです。

木村 「労働安全衛生活動の2つの潮流」には、「法規準拠」と「自主対応」とありますね。

天明 そうですね。法規を守るだけでは労働者の健康が守られないという状況が作られ、70年代初めに先進国が労働安全衛生法を変えたのは、産業技術の著しい発展という背景があります。新しい技術、新しい作業方法などが労働現場にどんどん入ってくる中で、従来の法律だけを守っていれば良いという状態ではなくなった。職場の労使が健康阻害要因、ストレス要因をどうコントロールしていくのかというのが「法規準拠型」から「自主対応型」へという潮流で、これを法律化したのが日本の労働安全衛生法です。

木村 高度経済成長期に労働環境や作業内容が多岐にわたり、化学物質も増えてきた。そういう中で新しいルールが必要になったという事ですか?
天明 例えば、パソコンは素晴らしい技術的な発展ですが、パソコンは疲れないけど、使う人間はどうしたって疲れます。蓄積疲労にならないうちに十分に回復して新鮮な体で仕事に取り組まなければならない。そういう意味ではパソコンとの付き合い方に関しても考えていかなければならない。

木村 そうですね。ずっと作業していると、目は疲れるし肩は凝るし、集中力も続かなくなります。

天明 日本の労働安全衛生法は労使参加を打ち出していますが、各事業所におかれる安全衛生委員会は、全体参加ではなく代表参加に終わっている。イギリスなどヨーロッパでは、職場全体の労働者が使用者と共に参加する方式です。この点では日本が遅れています。

働く人の生活全体に目配りして対応するのが作業関連疾患の考え方

木村 続いて、労災職業病、作業関連疾病についてお伺いします。

天明 産業保健の大きな課題の一つは職業病の予防と発生時の労災適応など、適切な対応が必要ですね。アスベスト関連の肺疾患―アスベスト肺、肺がん、中皮腫(胸膜・横隔膜のがん)の拡大は、それからの課題でした。作業関連疾患というのは、その発症が100%作業に起因するとはいえなくとも、かなりの部分で作業環境・作業方法が関わっていると考えられる疾患の総称です。腰痛は100%作業がかかわっていることも、70%前後の関与の場合もあるでしょう。また高血圧や脳梗塞も作業関連疾患に入るケースもあるはずです。その場合、どうすれば新たな発生を防ぐか、現場での労使の適切な対応が求められます。むろん当該労働者の生活全般への目配りも必要でしょうが、作業関連疾患はあくまでも主な要因が職場にある場合の対応は必要という問題提起です。

職場全体の作業環境をチェックするのが一次予防=「職場ドック」

木村 同一姿勢の持続、反復動作や作業量など職場一つ一つの作業環境や、またメンバーや時間帯、労働時間によっても違いますよね。

天明 労働現場が従来ほど単純ではなくなりました。例えば航空管制のようにずっとモニターを見なくてはならない仕事の場合、高度な安全性に関わる問題なので短時間で交代するようになっていますが、従来とは違った多様な健康に対する複合的リスクがある。仕事に内在する健康リスクが一つではなく、複合的という点が近年の労働安全衛生の特徴です。
労働安全衛生にかかわる人たちの役割も、複合的リスク要因をどう洗い出すかが問題になります。そういう意味で、一次予防、二次予防、三次予防という概念を厚生労働省が提起しています。
一次予防、二次予防、三次予防はターゲットが違います。二次予防と三次予防はあくまでも働く人個人が対象ですが、一次予防は職場全体がターゲットです。
木村 職場全体ですか?

天明 職場全体にどういうストレス要因があるか、ストレス要因を洗い出し、要因が分かればストレスを弱める対策をどれだけ打てるかが一次予防です。一次予防という言葉は分かりにくいので、高知県の産業医が、一次予防を「職場ドック」と呼びましょうと提唱しています。

木村 二次予防、三次予防は個人、一次予防は職場がターゲットですね。「早期発見で早期治療」と言いますが、その時点で既に病気が発症していますが、一次予防(職場ドック)とは病気になる前から予防のために職場を働きやすくするというのが大きく違いますね。
労働者一人ひとりが自分の職場を見直す

木村 職場ドックはどんな方法で行うのですか?

天明 厚生労働省が「労働安全衛生マネジメントシステム」という手法を提起しています。職場のストレス要因にはどんなものがあるかを洗い出し(一次予防)、そのストレスをどう軽減できるかを労使双方が話し合い、医師等の専門職の意見も聞きながら対策を練ります。

木村 仕事の量があり過ぎて辛い等という事を見ていくという事ですか?

天明 先ほども触れましたが、職場には複合的なストレス要因があり、仕事量もその一つです。一つ一つのストレスをどうしたら軽減できるか、また対策の順位もつける必要があります。一度にすべてのストレスに対応することは出来ないので、その職場では何が一番重要で、何が取り組み易いか? やり易い事から取り組んで、職場全体が「やれば職場が働き易くなる」と、働く人たちがそれぞれつかむことが狙いです。
人員を増やすのが一番の対策ですが、一人余計に雇うことは難しいので、まずは、出来やすくて重要なストレス対策を考えることが必要です。

木村 労働者一人ひとり、全ての人が自分の職場を見直すという事ですかね。
天明 そうですね。働く人一人ひとりが、企業経営者と同じように、職場のストレス対策を考えることが重要です。職場の安全衛生の責任者は事業所にあるので、営業部門の重要性と同じレベルで、職場の労働安全衛生活動が組み込まれなければならないと思います。そういう意味では、労使双方が安全衛生活動をやっていくという事ですね。
まずはどういうストレスがその職場にあるか?、どのストレスが取り組みやすく重要かの順位付けが必要です。そうすることで、働く人も使用者も労働安全衛生は取り組めば自社でも出来ると、能率も上がるというような展開が望ましいです。
「労働安全衛生マネジメントシステム」はそういう取り組みの繰り返しです。スパイラルアップと言いますが、今年よりも来年、来年よりも再来年というように一つの所で落ち着かない。
「法規準拠型」は法律を守っていれば良いという事で、法律に適合していればそこに留まってしまいますが、参加型の労働安全マネジメントシステムは、一年一年良くなっていくというところに大きな特徴があります。

職場ドックを行うことで、労働者側にも使用者側にも利点がある

木村 「労働安全マネジメント」は労働者が守られるイメージがありますが、能率が上がるという話もありました。そうすると企業の利益にもなる。企業側は「赤字だから職場ドックなんてするゆとりは無い」と言いそうですが、そうではなく、職場ドックをする事により労働者側も使用者側も利点があるということですね。

天明 そうです。本来そうあるべきです。特に今、グローバル経済で、日本も世界中の企業と競争する厳しい状況で、労働安全衛生にかまけていられないという使用者も多いと思いますが、決してそうではない。労働安全衛生の取り組みが企業の利益につながるのです。
昭和の時代は年功序列型の雇用形態でしたが、平成になって成果主義や能率主義が叫ばれています。相当考えてやらないと、本来の意味での労働安全衛生のレベルは上がらない。もちろん企業は能率を追及することは必要ですが、それだけではなく、同時に働く人たちの環境を良くしていかなくてはならないのです。

医者は、患者から仕事の話を聞いて初めて、仕事との関連に気付く

天明 ところで、病気で医者にかかる場合、自分はどんな仕事をしているのかを主治医に言わないといけません。医者は病気ばかりを見て、その患者の社会生活全体を見ていないのが現実です。

木村 風邪をひいたのは、寒いからか? 山に登ったからか? 貧しくて栄養失調だからなのか? 原因が色々違いますよね。

天明 その通りです。その病気の発症した背景について聞かないで診察が終わることが多いです。

木村 患者からすると、医者から聞かれないと言いにくいのですが、「私はこういう仕事をしていますが、仕事が原因でしょうか?」と、気軽に聞いて良いのでしょうか。

天明 患者からも仕事の話を積極的にして下さい。医者は患者に言われて初めて仕事との関連に気付くのが現実です。私は産業医と臨床医を両方やってきたので患者の仕事については必ず聞くことにしていますが、どういう仕事を1日何時間位やっているのかを最低限、医者も聞いてほしいです。

非正規雇用と人間らしい労働

天明 国際労働機関(ILO)や世界保健機関(WHO)が提起している「ディセントワーク」というのは「人間らしい労働」ということですが、これは非正規雇用の場合などは自分の身分が不安定だから「人間らしい労働」とは言えないわけです。

木村 今、正社員ではなく、非正規雇用や派遣社員という方が増えています。正社員の職がないから非正規で働かざるを得ない。すると、お金のこと、将来のこと、保険のことで不安がいっぱい重なり、人間らしい生き方や働き方が出来ないですよね。

天明 現実はもっと厳しい状況です。ある外食産業では、事業主から「正規職員になってくれ」と言われても断る現実がある。正規職員がどれだけ厳しいノルマを課せられ仕事をさせられているかを知っているからです。しかし、非正規では身分が安定していない。こういう現実を見ながら、ILOとWHOがディセントワークという概念を提起している訳です。少しでもその方向に近づけましょうということです。

木村 「ディセントワーク」をもう少し詳しく教えてください。

天明 簡単に言えば、人間らしい労働です。生活と労働との間のバランスが取れて、労働の再生産を可能とする身体条件が保たれるような労働条件の構築が必要です。一晩寝ても前日の労働の疲れが溜まっている状態は決してディセントワークとは言えません。同時に、非正規職員のように、いつ職を失うか分からない不安を抱いている状況も、人間らしい労働とは言えません。

職場の高齢化やアスベスト問題など、労働安全衛生のグローバル化

木村 続いて、職場の年齢構造について。今、高齢化が進んでいますが、そこで起きる問題とは?

天明 若くて力がある人、年取っているが経験がある人、その中くらいの人、と3つの年齢階層がうまく各々の特徴を活かしながら働ける条件を作ることが重要です。ところが今の短期的な能率や効率を求めるやり方だと高齢者がはじき出されてしまう。あなたパソコン使えるのかと。でも、高齢者の持つ経験はパソコンが使えなくても活かせると思います。職場にゆとりが無くなったのは不幸なことです。これだけ超高齢化社会になると、企業の中でどう高齢者の経験を活かすかという事が、安全衛生の問題を考える上での一つの課題です。
また、グローバル時代の安全衛生を考える上で、世界的なところに目を向けなければならないと思います。例えばアスベスト問題。アスベストの有害性ははっきりしていますが、世界中では今でもアスベストを使用している国は多い。カナダやロシアはまだアスベストを輸出している。自国ではアスベスト規制があるから、他国にアスベストを持ち込んでいる。そういう状況なので私たちは、アスベスト問題の世界大会を開催したり、アスベスト禁止アジア・ネットワークを作ったりしました。アスベスト禁止の動きを日本だけでなく、アジア全体に広げていく必要があります。そういう意味での国際性を、労働安全衛生活動の重要な視点として持っていなければならないと思います。

木村 日本国内だけでなく、世界中のすべての労働者の健康がきちんと守られるような国際基準が必要だということですね。

天明 それぞれの国で民間の立場でもネットワークを組んでやっていく必要があります。その具体的な活動の一つがアスベストで、私たちは韓国や香港やタイの人たちと一緒に民間レベルのネットワークを作っています。
最近では印刷労働者の胆管癌の問題で、原因となった化学物質の有害性について日本が先鞭をつけたのですから、世界に向けて発信していかなければならないと思います。 同時に他の国々からも色々な情報を取り入れて、日本の労働安全衛生の中でどう対応していくかを考える必要があります。

木村 先進国として分かっていることを世界に知らせることで守れる命があるという事ですね。
天明 神奈川労災職業病センターは、同じ志を持つ日本中の仲間と一緒にこれからも労働安全衛生の活動をやっていきます。そしてその仲間がアジアや世界に行って、日本のアスベスト被害の現状などを発信して今後の予防に繋げることが重要だと思います。東京電力の原発事故における放射線被害の問題等も行政だけでは駄目で、民間の有志や地元の方、関心のある人たちが時間を出し合って取り組まなければならない問題が山積しています。

木村 色々な労働現場の課題においてぜひ地域の労働安全センターをご活用頂ければと思います。今日はどうもありがとうございました。