センターを支える人々:中丸 武夫さん(郷土史研究家)

70年の時を超え、石綿被害の恐ろしさ今に

 私が勤めた会社は、戦前から石綿を主原料とする工業製品を製造する工場を経営し、昭和40年頃には石綿吹き付け工事も施工する会社でした。昭和の中頃から在職中に早期に亡くなる人や体調がすぐれない人が多く見受けられるようになりました。私は現役の時に仕事上で外国の石綿被害の情報も得ていましたので、工場で働いていた人々と共に疑問を感じ、神奈川労災職業病センターの「アスベスト電話相談」に相談したことがきっかけとなり、ご指導の下に活動を開始しました。

 平成3年(1991年)、会員約40名ほどで、「アスベスト被害を考える会」を立ち上げました。「静かな時限爆弾」と言われ、発症後早期に悪化し、自殺される方もおられると聞きました。そのこともあり、発症後に対応するのではなくて、「早期発見」「早期対応」「被害者と家族の自覚」などを目的とした、年3回の自主健診と関係者の勉強会をその都度開催し、13年ほど活動してきました。その結果、多くの会員の救済ができました。これも一重に関係者のご指導、ご協力によるもので、改めて御礼申し上げます。当時このような取り組みをする会は全国で初めてだとききましたが、支えていただいた斎藤先生はじめとするセンターのみなさん、名取先生他の関係者のみなさんに努力を頂いた賜物で、今でも忘れません。

 私自身は、石綿製造会社に昭和26年に入社、二年半ほどは石綿現場で作業に従事しました。その後は工場で応援作業をしたこともありましたが、10年ほどで本社の管理部門に移り、石綿に曝露することはなく60歳定年を迎えています。ちょうどその折りに会を結成して、会長を務めたような次第です。会が活動を停止してからも、私は現在の89歳を過ぎるまで、地域医療におけるレントゲン検査などを受けて、難なく過ごしてきました。

 ところがこの度、石綿に曝露してから70年を経て「石綿胸膜炎」(びまん性胸膜肥厚)と診断され、呼吸困難に至っています。アスベスト疾患は高齢になり、体力が落ちた頃に発症すると、当時の会員には再三申してきましたが、まさか自分が、この年になり被害を受けるとは夢にも想像していませんでしたので、大きなショックを受けました。私が異例なのかは判断できませんが、石綿は永久に付いてくる物質であることは間違いないと考えます。このようなことからみなさまにご報告を申し上げた次第です。
 これからも多くの人々が職業病から救われることを願っております。

敬白

 余計な補足をさせてください。中丸さんはセンターの「指導の下」などと謙虚に書かれていますが、私たちはほんの少しお手伝いする程度で、実際には、全て中丸さんらが自主的に会を運営されていました。会の目的は「お金ではない」とけじめをつけられていましたので、原稿でもさらりとしか触れられていませんが、じん肺管理区分申請、労災認定手続きの支援はもちろんのこと、会社と企業内上乗せ補償の交渉にも取り組まれて、円満に解決されています。会員さんはもちろんのこと、会の活動停止後も同僚の作業実態の証明などで再三お世話になりました。まさに中丸元会長の「ご協力」なくしては、とりわけ90年代からいわゆる「クボタショック」以前のセンターのアスベスト問題の積極的な取り組みは、あり得なかったのです。「私は一番若いし、アスベストはほとんど吸ってないからさ」と笑いながら、それでも仲間のために献身的に活動されていた中丸さんの発症は、私も大変ショックです。現在、労災請求中です。 【川本】