教員の公務外認定取消し訴訟・意見陳述書【東京地裁】

 本誌20年7月号で紹介した山梨県立甲府技能専門学校の教員であったAさんの胸膜中皮腫の公務外認定の取消し訴訟の第1回口頭弁論が東京地方裁判所民事第36部にて開かれた。今号では、その際に提出した原告および代理人である福田弁護士の意見陳述書を紹介する。裁判所で意見陳述書を読み上げたAさんの姿はとても立派であり、裁判長も同じ女性ということもあってか、夫の看病について、逝去後の子育てについて陳述するAさんの言葉に真摯に耳を傾けていた。

 次回期日は12月17日(木)午前11時30分~東京地裁709号法廷。多くの方の傍聴参加をお願いします。【鈴木江郎】

Aさんの意見陳述書

 私は、夫を中皮腫で亡くしました。今日は、私の夫であるAの中皮腫による死亡が、県立高等技能専門学校の公務によるアスベスト曝露が原因であると訴えるにあたって、いくつか私の気持ちを述べようと思います。

 私と夫は2人の子どもをもうけました。上が女の子、下が男の子です。幸せな家庭を作っていました。しかし、上の子が小学校1年生、下の子が3歳の時に、夫は中皮腫と診断され、間もなく亡くなってしまったのです。

 胸の痛みなどを訴えていた夫が病院で検査を受けると、私に病院からすぐ電話がかかってきました。その内容は、「直ぐ入院した方が良い」というものでした。当時は病名を正確に患者に伝えない時代で、私だけが、お医者さんから、「9割8分悪性胸膜中皮腫です」「2ヶか月位で亡くなることもあります」と聞きました。そのときの気持は、ことばで表すことができません。現実のこととは思えませんでした。

 それから夫が亡くなるまでの約半年間、私は、夫に正しい病名を言えないし、周りの看護師さんなども、夫から温熱治療の機械の説明についてごまかし続けるなど、とても辛い日々でした。夫は、痛みに毎日苦しんでいました。病気のことはあまり話さない夫でしたが、ブロック注射が効いたときは、今まで痛みでしかめていた目を明るく見開いて、背筋も伸ばし、「痛みがないってこんなに快適なのか」と言っていたのを思い出します。しかし、夫は自分が長くないことに気がついていたようでした。7月、先生が、「元気に帰れるのは最期だから」と、子どもたちの夏休みに合わせて夫を一時帰宅させてくれました。その頃、夫は、拳銃で撃たれる夢を見たなどと言い、「死ぬのが怖い」とも言っていました。そして亡くなる1ヶ月前に再入院したとき、「俺はもうダメだと思う。3人(子ども2人)でしっかり生きていきなさい」と言われました。私は夫亡きあと、このことばを支えにしていくことになります。

 日に日に夫の病状は悪くなっていきました。夫は、鎮痛のためにモルヒネを打ち、もうろうとした幻覚の中で、仕事中のことを話していました。「○○くん、じゃあ答えて」「こうするんだよ」。夫は、幻覚の中でも、生徒に授業をしていたのです。そんな中、私も諦めず、殆ど毎日、消灯の夜9時まで夫に付き添いました。夫が亡くなるその日まで、本当に死んでしまうなどということは思いもよらなかったのです。夫は、このように、痛みと不安や恐怖、仕事への無念さを抱えて亡くなっていったと思うと、辛いです。

 夫が亡くなってから、日々の生活に追われ、夫の死について考える余裕がありませんでしたし、泣くと弱くなると気を張ってきました。ところが今、この裁判のために夫の死に改めて向き合うことになり、涙を止めることができませんでした。この33年間、私が夫のことを思い出さなかった日はありません。寝るときは、痛みで眠れない夫の闘病の姿を思い出し、草取りをしていると「夫はこれが好きじゃなかったな」と思い、近所の男性を見ても、「うちの人の方が格好よかったね」などと娘と話したりするのです。

 これまで私は、子どもたちに不自由な思いをさせないように、父親がいないために偏らないように、努めて子どもと外出したり旅行をして思い出をつくったりと、子育てを夫からの「宿題」だと思い、一生懸命育ててきました。それでも、夫がいたら、男の子の育て方はもう少し違ったのかなとか、就職の際にもっと方向性を与えてあげられたりしたのかなと思ってしまいます。おかげさまで2人の子どもは大学を卒業し、元気に今も働いています。これで私の宿題はだいぶ終わったのかなと思っています。

 しかし、まだ私には夫からの宿題が残っています。それは、夫の不安や恐怖の中の死が、仕事によって起こったものだと認めて貰って、無念を晴らし、教員にもたいへん多く発症し、今後も増え続けていくアスベストの被害を過去のものにせず訴えていくことです。夫は、幻覚でも仕事をするほど一生懸命、生徒のためにやっていました。その中で、電気工事指導をしていたので当然、アスベストを8年間吸っていたのです。これは民間の労災なら労災と認められていたはずです。それなのに、アスベストを吸っていた期間が短いとか、アスベストの量が少ないなどという理由で、仕事以外でアスベストを吸う理由がないのに、公務外とされてしまいました。

 ぜひ、裁判所には、夫の働いていた実態や、国がアスベストを広く利用させていた責任を直視し、夫がアスベストによって亡くなったことを認めてもらいたいと思います。

福田護弁護士の意見陳述書

 原告代理人の立場から、本件の基本的問題点について述べます。

1 本件の特質と時代状況

 本件被災者のAさんは、1949(昭和24)年7月生まれで、いわゆる団塊の世代であり、日本の高度成長期を生き、1987(昭和62)年9月、38歳の若さで死亡しました。被災者が本件技能専門学校で教鞭をとっていたのは1973(昭和48)年4月から1981(昭和56)年3月までの8年間でした。ちょうど1970年頃から日本の石綿輸入量は急増し、1975年にはそのピークを迎えます。そしてその7割以上が建築現場で使われており、アスベスト建材の使用自体及び障害の防止についてまだ規制らしい規制はありませんでした。被災者が電気工事科の生徒たちに対する応用実技等の指導に当たっていたのは、まさにその時代の建築現場であり、校舎内でした。被災者は、明らかに「石綿ばく露作業」等に従事していたのです。

2 本件処分の不合理性・違法性

 被災者の死因となった悪性胸膜中皮腫は、アスベスト以外に原因が考えられにくい特異的疾患であり、その発症・死亡は基本的にアスベストによると推定されます。そして、職業以外にアスベストへのばく露が考えられなければ職務に起因するものとみるべきです。しかも中皮腫は、石綿肺や肺がんなどと違って、低濃度の短期間ばく露でも発症し、その下限値ないし閾値はないことが医学的知見として明らかにされています。

 ところで本件処分は、石綿労災認定基準に基づいて本件の公務起因性を判断するとしながら、その認定基準に反する極めて不合理な認定・判断をして本件の公務起因性を否定しています。

 一つは、石綿労災基準では、中皮腫の場合、石綿ばく露作業の従事期間が「1年以上」あればよいとされており、被災者が8年間、本件技能専門学校の職務に従事していたのに、この要件該当性をあえて「不明」であるとしている点です。

 もう一つは、石綿労災基準では、中皮腫の場合、「最初の石綿ばく露作業を開始したときから10年未満で発症したもの」でなければ潜伏期間の長短を問題にしないこととしており、本件ではその期間が約14年あって、何の問題もないにもかかわらず、あえて「潜伏期間が最長でも14年間と非常に短い」などとして因果関係を否定している点です。そして、製造業従事者のように「濃度の濃い状態で石綿を大量に吸ったということも考えにくい」と、ばく露・吸引量を問題にしているのです。

 しかし、これらは明らかに石綿労災認定基準や中皮腫に関する医学的知見に反する判断です。かかる不合理な判断で本件の公務起因性を否定して、残された遺族の救済を拒否し、ひいては、この国のアスベスト被害の責任の所在をあいまいにするとともに、被災者の救済全体を後退させるかかる基金の運用は根本的に見直されなければならないと考えます。