センターを支える人々:日和田 典之(全造船関東地協労組JFE日本鋼管分会書記長/よこはまシティユニオン執行委員長)

 今、この原稿を、神奈川労災職業病センターの事務所でもあり、「よこはまシティユニオン」の事務所でもある鶴見の事務所の片隅で書いています。建て付けが悪くなり、ギシギシと音を立てる入り口の扉には、センターとユニオンの看板が上下に貼り付けてあります。センターの人が不在の時、ユニオンのメンバーが電話に出て、「センターの人は今いません」と答えることもあるのですが、相手からすれば、「電話に出ている、あんたは誰」と思うことでしょう。そんなユニオンとセンターの関係は、私にとっては、もはや体に染みついたものですが、せっかくの機会なので、少しお話しさせてください。

 かなり古い話ですが、私が18歳で当時の日本鋼管鶴見造船所で働き始めたのが1974年。朝の出勤時には、「松井労災裁判支援」「小野君の腰痛を職業病と認めろ」などの表題が踊る、「どたぐつ」という工場ビラがひんぱんに撒かれていました。後にセンター事務局を担う早川さんが今と全く変わらない文字で書いていた手書きのビラです。

 当時の造船所は、まだ造船ブームが続いていて、どんどん人を入れていましたが、仕事は荒っぽく、死亡災害もあり、ひんぱんに休業災害が起きていました。騒音・粉塵も半端ないのですが、「(防塵)マスクなどして仕事になるか」と言われたことを今でも覚えています。現場に100人入っても3年後に残っているのは10人に満たないという職場でした。賃金が安いという問題も当然ありましたが、職場の安全は、働き続けるための最大の問題だったのです。

 故・小野さんの腰痛闘争は、「労災職業病を考える会」へとつながり、毎月かなりのページ数の冊子を手作りで発行する中、横浜市民病院や七沢リハビリテーションセンター、ゼネラル石油や全港湾などとのつながりを拡げていきました。しかし、会社の組合が支配する民間大企業の中で、会社と交渉し、解決する能力を持つには、もうワンステップ必要でした。

 造船不況を理由に、日本鋼管は、希望退職という、大規模な「首切り」を提案してきました。この時、会社の組合を脱退し、「全日本造船機械労働組合日本鋼管分会」を結成し、労働組合として会社に立ち向かう道を歩み始めました。神奈川労災職業病センターが設立され、鶴見の事務所ができたのと同じ頃です。

 ユニオンショップ協定を理由に解雇され、分会結成から6年間は職場に出入り禁止でしたが、この時期は、解雇前にはあまり自覚していなかったじん肺やアスベストの問題、過重労働、労災隠しなどの問題を学習できた時期でもありました。センターの活動を身近にみていたおかげです。労働科学研究所の故・佐野先生の講演で本当の肺の切片を見た時は衝撃でした。自分がなぜ「特別化学物質検診(石綿)」を受けていたのか、なぜ労基署の立ち入りが何度もあったのかも、当時は理解していませんでした。

 職場に復帰して、小なりといえども労働組合として会社と交渉していくと、できることが広がっていきます。下請け労働者や退職者の労災問題は、当事者や家族に分会に加入してもらうことによって、原因解明、補償、再発防止の交渉を具体的に会社とすることができます(正式な団交議題かどうかを曖昧にすることもありますが)。修理ドックで潜水夫が潜水中に空気のホースを挟まれた事故、下請けの足場屋さんのアスベスト被害の問題など、組合として取り組んだことによって解決することが出来た事例は少なくありません。その時に中心になるのは、分会の委員長であり、センター立ち上げの中心メンバーである早川さんです。センターの活動と労働組合の活動の究極的な一体化です。なにせ同一人物なのですから。

 とはいえ、かつては「金と命のコーカン会社」と言われ、9月1日の合同慰霊祭では社員だけで800人近くの「殉職者」の慰霊を行っていた会社です。現地工事や下請け工事では今でも死亡災害が発生します。私自身も、たまたま自分の代わりに配置についた同僚を事故で亡くしたり、数日前まで同じ船で仕事をしていた塗装のおばちゃんたちが爆発事故で死んだのを知り悲しい思いをしたことがあります。センターの活動を通じて学習し、組合という闘う手段を手に入れても、命と健康を守る活動は、日々積み重ねていなければ、すぐに悪い結果として現れるものだと思います。最近では高齢化する労働者の安全問題も深刻です。

 さて、今回私に与えられたテーマは、ユニオンとセンターの関係についてです。最近は、よこはまシティユニオンとしての活動がほとんどなのでおっさんの昔話より、今の話をしてくれということなのだと思います。

 ユニオンにはハラスメントの相談が多く寄せられ、メンタル面のバックアップは欠かせません。専門知識の提供・啓発、診療機関の橋渡し、労働行政との交渉などをセンターが担いながら、解決能力を持ったユニオンが会社との交渉を行い、補償や再発防止、職場改善を行っていく。再発防止や職場改善にセンターがアドバイスするという関係性は今後も変わらないでしょう。そういう意味で、センターとユニオンが同じ事務所(狭い、しかもボロいという叫び声が聞こえますが)にあるというのは自然で合理的なことだと思います。

 最後に、ユニオンだからこそ、と実感した事を紹介したいと思います。

 造船を卒業して陸の仕事で機械の現地組み立ての仕事をしていた時、遠隔地の現場のゼネコンの職員が口を酸っぱくして言っていたのは、「どんな小さな事故でも絶対に隠さず、まずゼネコンの職員に報告しろ」ということでした。理由は「最近は組合とかユニオンが労災隠しだと言って金にしようとするから」というものでした。ちょうど神奈川シティユニオンなどが多発する労災隠しを許さないという闘いを強めていた時期でした。動機は不純ですが、ユニオンの取り組みが労災隠しをするなという姿勢にゼネコンを変えていたのです。もちろん今でも労災隠しは絶えませんが、行政に働きかけただけでは得られない、直接企業にぶつかったからこそ得られた波及力だと思います。

 解雇されていた時期、1年ほどセンター事務所に居候し、100グラム50円の鳥の皮をゴマ油で炒め、小野さんの実家から送られた米を炊いて飢えをしのいでいた時期もありましたが、不思議と夜はワンカップ片手に誰かと雑談していました。畳の部屋をぶち抜き改造工事をしたのは、結成して間もない神奈川シティユニオンの組合員たちです。様々な人たちの思いや頑張りがこめられ、たくさん運動を作ってきた鶴見の事務所ですが、建物はその分、老朽化しました。これからどういう展開になるのか楽しみでもあり心配でもありますが、座敷童のようになぜかいつもいる人であり続けようとは思っています。