センターを支える人々:松島 恵一さん(中皮腫サポートキャラバン隊 事務局長)

母の中皮腫から現在の自分

 私は埼玉県本庄市で介護職員をしながら妻と暮らしていました。職場ではリーダーを任され忙しくも充実して、休みの日は妻と趣味のスキーやキャンプを楽しみ、ごく普通の生活を過ごしていました。42歳でした。母の松島かつ子は67歳で埼玉県上里町で父と2人暮らし。娘が近くに住んでおり4人の孫の成長を見守りながら静かに暮らしていました。体も丈夫で風邪を引いた話も聞いたことがありませんでした。

 母は2010年1月頃、急に痩せ始めましたが、糖尿病治療で食事制限しているせいだと言いました。7月中旬に左肩と背中が痛いと言い始め、近くの整形外科を受診しましたが原因が分からず、痛み止めと湿布を処方されました。8月、お盆に家に帰ると母の左の瞼が下がっていました。肩や背中は特に痛そうにしていなかった為、私は特に心配しませんでした。8月25日、再び家に帰ると母の体調は急変しており、肩と背中の痛みがひどくて寝込んでいました。痩せた体でやっと起きてきた母を見て、これは普通ではないと感じました。妹に連絡すると、「明日にでも日赤(深谷赤十字病院)に連れていくよ」と言ったので私は少し安心して家に帰りました。

 8月26日・27日、日赤でレントゲンやMRIを撮り、頚椎狭窄症の疑いと診断され、痛み止めのロキソニンとモーラステープを処方されました。私は日赤の診断を信用し、それほど大事では無いと思い込んでしまいました。
 8月30日、入院することになったと妹から電話がありました。母は痛みを我慢できなくなり妹に連絡し、内科を受診し、血液検査の結果、「CRP値が異常に高い。その他の数値も異常なのですぐ入院するように」と言われたそうです。私が病院に着くと、妹は「ばば、ガンかもしれない」と泣いていました。私も強い不安感に襲われました。

 翌8月31日、主治医から「まだはっきりしたことは言えないが、おそらく肺がんによる胸膜炎もしくは良性胸膜炎です」と説明されました。私も妹も妻も「まさか母親が」という気持ちでした。がんなんて他人事だと思っていた私は衝撃的でした。

「悪性胸膜中皮腫」の診断

 9月1日午前中、主治医の他2人の先生が病室に入って来るなり、「お母さんはアスベストを使用した仕事をしていましたか」と聞いてきました。その場にいた家族全員が「アスベストって何だ?」と全くの「寝耳に水」でした。午後、主治医と呼吸器外科の先生から「悪性胸膜中皮腫」という病名を告げられ、「アスベストを吸った人しか発症しない病気で予後が悪いです」「余命は約9ヶ月、抗がん剤が効けば約3ヶ月伸びます」と説明されました。妻と妹は泣きながら一生懸命、主治医にいろいろ質問をしていました。私は茫然として「わかりました」と答えるのが精一杯でした。

 病室の母は点滴と痛み止めで落ち着いた様子でしたが、不安そうな顔で目に涙を浮かべていました。茫然として実感のなかった私は現実から逃げるようにすぐ帰宅してしまいました。後に妹に聞くと、母は「がんだったらどうしよう。(孫の)倫ちゃん、巧ちゃんと遊びたい」と泣いていたそうです。病名は伝えないと家族で決めました。先生も「その方がいいでしょう」と同意見でした。

 2010年当時、私はアスベストについてほとんど知りませんでした。クボタショックのニュースをテレビで見たのを憶えているくらいでした。「悪性胸膜中皮腫」をパソコンで検索してもろくなことは書いてありません。回復の可能性が無い事は何度調べても一緒で、どん底に落とされた気持ちでした。そんな中、パソコンで「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」に辿り着きました。電話すると、事務局の方が私の話を熱心に聞いてくれて、「明日病院に行きましょう」と話してくれました。

 9月3日、事務局員さんが病院に来てくれ、ベッド上の母にいくつか質問をしました。母は消え入りそうな声で一生懸命に考えて答えていました。
事務局員「アスベストは知っていますか?」
母「知らないなぁ」
事務局員「埃がいっぱい舞う工場で働いたことはありますか?」
母「はい」
事務局員「どこですか?」
母は「大宮かなぁ」
事務局員「エタニットですか?」 すると横にいた父が、「エタニットじゃないけどエタニットから出向が来ていた」と言いました。一緒にいた私や妹達は何のことか全く分かりませんでしたが、その後の調べで、日本エタニットパイプの下請け工場で父母が働いていた事が判明。労災と救済法の申請をすることになりました。

日本エタニットパイプの石綿管

 その工場は大宮市大字宮ヶ谷塔(現在のさいたま市見沼区)にあり、日本エタニットパイプ代理店の他、日本エタニットパイプ大宮工場から運ばれた規格外の石綿管を切断加工して止水栓管に作り替え、新商品として販売していました。両親は1963年から5年間、工場2階の住居に住み働いていました。父は配送担当で毎日、大宮工場から規格外の石綿管を運び、母は止水栓管の製造現場で石綿粉塵にまみれて働き、石綿曝露から40年以上が過ぎて中皮腫を発症したのでした。

 2010年9月は母や家族にとってすごく穏やかな1ヶ月でした。肩や背中の痛みはありましたが、点滴と痛み止めのコントロールで、退院できるのではと思うくらい病状は安定していました。日中は妻と妹、夜間は私が付き添い、24時間母の看病をしました。ヘルパーさんに代わって母の髪を洗ったりもしました。母が元気な頃はあまり話もしませんでしたが、病室では小学生の頃から現在のことまでたくさんの話をしました。妻や妹も同様でした。4人の孫も頻繁に見舞いに来て、母は楽しそうに笑顔を見せていました。小学6年の孫とは交換日記をし、孫からの日記を読むのをとても楽しみにしていました。日記帳には「ばばのだから絶対に見ないでね」と書いてありました。ある日、母が検査でいない時に何となく日記帳を見てしまい、「絶対に見ないでね」の理由がすぐにわかりました。最後のページに母から家族全員にあてたメッセージが書いてありました。弱弱しい字で家族一人一人に母の最後の言葉が書いてありました。私はその時、母が自分の死を覚悟している事を知り、ショックと悲しみで涙が止まりませんでした。病室に戻ってきた母にしばらく何の言葉もかけられませんでした。

 10月に入った途端、病状が急激に悪化。呼吸も苦しくなり、体内から二酸化炭素を排出しづらくなって意識も薄れてきました。主治医は「進行が早く余命半年位、来年の桜が見られるか分かりません」と言いました。私は現実を受け入れられずどうにかなりそうでした。特変時にすぐ対応できるようにとナースステーション前の個室に移され、体にセンサーを着けて24時間バイタル管理も始めました。今まで落ち着いていた肩と背中の痛みが激しくなり、麻薬系の痛み止めも効かなくなりました。夜中に「痛い痛い」と泣いている母に、看護師は、あんかを持って来て肩と背中を温めてくれました。私はずっと体をさすっていましたが他にどうする事も出来ませんでした。血中酸素濃度が90%を切るとアラームが鳴る為、何度も鳴り響くアラーム音で頭がおかしくなりそうでした。

 10月10日、母は自発呼吸が難しくなり、主治医から「人工呼吸器を着けるか家族で話し合ってほしい。呼吸器を着けなければ今日か明日かも知れない。呼吸器をつけたとしても何があるか分からないので今のうちに親しい者に会わせてください」と言われました。親しい家族がすぐに集まり、人工呼吸器を着けることになり、翌日午前に呼吸器を着けました。挿管後、酸素が入ったことで意識は戻りましたが、ベッド上で両手両足を固定され激しく体を動かす母を見て私は全身の力が抜けたのを憶えています。父もその場で座り込んでしまいました。

 10月12日、主治医にCT画像を見せられ、「このままだと1ヶ月もつか分からない、何もしないで死ぬのを待つよりリスクはあるが抗がん剤をやってみましょう。家族で話し合ってください」と立て続けに重大な選択をせまられ、私も家族もまるで悪夢を見ているようでした。今となっては正解だったのかわかりませんが、当時は抗がん剤という選択肢しか私達家族にはありませんでした。

抗がん剤治療を始める

 10月13日、アリムタ・シスプラチンを点滴。私は、不安そうな家族の顔を見ても何も声を掛けることが出来ず、自分を情けないと思ったことを憶えています。10月20日、抗がん剤の副作用が出てきた母は緊急輸血しました。輸血2回、人工透析2回しましたが副作用は治まらず、口内炎も酷くて口中の出血も多くて可哀そうで見てられませんでした。ある夜、母が私に何か訴えてきました。人工呼吸器を着けているので言葉は話せませんが、「お願い、起こして」と言っているのがわかりました。その時、呼吸器やセンサーが着いている母を私は怖くて起こしてあげることが出来ませんでした。「呼吸器が着いてるから起こせないよ」と言うと母はすぐ納得してくれましたが、母にとって一生で最後のお願いだったのです。何であの時に起こしてやらなかったのか、看護師を呼べばよかったのに。後悔しても遅く、今でもあの夜のことが忘れられず涙が溢れます。

 10月29日午後2時頃、自宅で仮眠中の私に妹から電話がきました。「間質性肺炎が悪化して今晩がヤマかもと言われた」とのことでした。すぐに病院に行くと、すでに母の意識はほとんどありませんでした。午前中は意識もはっきりしていたので信じられませんでした。耳は聞こえていると看護師が言うので、私と妻と妹で必死に話しかけました。両目は半開きのまま時々わずかに口を動かして問いかけに反応していました。夜になり家族全員が駆け付け、4人の孫も「ばば頑張れ、ばば頑張れ」と朝まで話しかけました。どんどん体や顔がむくんでくる母を見て妹が「もう点滴を抜いてください」と看護師にお願いすると、看護師は「点滴は最後まで外せないので一番遅く落ちるようにします」と気遣ってくれました。モニターの血圧や心拍数がゆっくりと確実に低くなっていくのがわかりました。血中酸素濃度はとっくに感知しなくなっていました。病室のアラームは切っていましたが、ナースステーションからは延々と鳴り響く音が聞こえていました。

 10月30日朝5時、母は家族に見守られて67年の生涯を終えました。私は、母親が死んだという実感がなく、周りで泣いている家族を見ても一人冷静でした。現実を受け止められなかったのです。いつもは「ばば」と呼んでいる妹が、「お母さん」と叫んで泣いている姿が印象的でした。葬儀社の車でなく妹の車で母を自宅まで連れて帰りました。私は心の中で「お母さんやっと家に帰れるね」と言いました。家族みんなが同じ顔をしていました。4階の病室から1階の裏口まで移動の際、看護師に「お母さん頑張りましたね」と声を掛けられ、初めて涙が出てきました。中皮腫発症から2ヶ月、本人にとっても家族にとってもまさに悪夢を見ているようでした。

患者会への参加

 2011年10月、母親の死から1年が過ぎた頃、「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」から誘われ、遺族会に夫婦で参加しました。世話人の方々は私達の話を黙って聞いてくれました。私は母の死をその時に実感し涙が止まりませんでした。入会のお誘いも受け、私達夫婦と「患者と家族の会」とのお付き合いが始まりました。それからは集いに参加するたびに癒され、私達の居場所はここだという気持ちになりました。そして「患者と家族の会」の活動に毎年積極的に参加するようになりました。

 2017年7月、現在の「中皮腫サポートキャラバン隊」共同代表の右田孝雄さんと出会いました。私はすぐに右田さんと意気投合。もう一人の共同代表である栗田英司さんたちと共に活動のお手伝いをすることを決めました。
 2017年9月、「中皮腫サポートキャラバン隊」が結成されました。中皮腫患者は予後が悪く情報も乏しく孤立しがちです。そんな中皮腫患者を励まし、繋ぐピアサポート活動。これこそ私や母が、妻や妹が見た悪夢から患者と家族を救ってくれる活動です。今思い出しても本当に耐えがたい悪夢の記憶から私を救ってくれるのは「中皮腫サポートキャラバン隊」です。

 2020年4月、「中皮腫サポートキャラバン隊」の事務局長を仰せつかりました。これからも共同代表の右田さんを支え、全国の中皮腫患者さんを励まし、繋ぐ活動を続けて、亡くなった母や栗田さんに恥じないような生き方をしていきたいと思っています。