悪性胸膜中皮腫になってから:舘山 亮さん(北海道在住)

(経歴)2018年11月に中皮腫を発症。治療として胸膜外全摘出を選択。術後、放射線、抗がん剤、免疫療法(オプジーボ)などの治療をしている。2019年11月には、「腹膜・心膜・精巣鞘膜中皮腫におけるニボルマブ(オプジーボ)使用についての署名」を厚生労働副大臣に提出するため、北海道から東京に赴いた。就学児を含む子供が2人おり、そのような経験から「働き盛りの人は家族を支えないといけない。治療の選択肢を増やして欲しい」と稲津厚生労働副大臣に訴えた。座談会「患者と家族が抱える中皮腫との向き合い方」などでも自身の経験を伝えている。NPO法人中皮腫サポートキャラバン隊副理事長。


 私は舘山亮と申します、北海道江別市在住45歳です。1994年3月に高校卒業後、電気設備関係の仕事に興味があり電気設備会社に就職しました。その後同じような業種の会社に2社ほど勤め、2011年4月に現在勤務している会社に就職しました。設備の現場監督として業者さん達と一緒に現場に携わっていました。それまでは私自身も職人だったため色々と意見の食い違いや問題等もありましたが、良い上司にも恵まれ、良い環境の中充実した仕事をしていました。家族は妻と長女、長男の4人で、皆買い物が好きで休日になると4人で出かけるなどしていました。

 2018年11月14日夜、当時43歳だった私は、自宅にいたときに背中の左側に鈍痛のような痛みと咳が出ました。普段から多少の事では病院には行きませんが、この時はいつもとは何か違う違和感がありました。しかし、そこまで心配はしませんでした。次の日にクリニックを受診して、左肺に水が10分の1位水が溜まっている事が分かりました。肺炎と診断されましたが、「他の病気も考えられるので、とりあえず薬を処方するので様子を見て2週間後位にまた来て下さい」と言われましたが、この時も余り気にしていませんでした。その後、薬を服用していたためか自覚症状が無かったので病院には行きませんでした。
 2019年初旬から、咳と息切れが以前よりもひどくなりました。1月9日に同じクリニックに行きレントゲンを撮ると、肺の10分の8位に水が溜まっており、肺炎では無い可能性があると診断されました。こちらの病院では診られないと言われ、北海道大学病院(以下、北大)を紹介してもらいました。この時は「こんな大きい病院でないと診れないのはただ事では無いのかな」と思いました。
 2019年1月中旬に北大で診察と検査をしました。医師の問診時に「アスベストにかかわる仕事をした事がありますか」と聞かれました。高校卒業後すぐに勤務していた会社で学校の天井裏作業時にアスベストがあったのを思い出しました。医師に「あります」と答えると、「中皮腫の可能性があります。もっと詳しく検査しますので、今すぐ入院して下さい」と言われました。その時もアスベストが危険だという自覚もなく、中皮腫の病気自体や深刻さも知らず、「大した事ないんだろう」と思ってました。その日に左肺の水を 1ℓ抜きました。その後はまったく症状がなくなりました。
 全ての検査が終わり、同年2月6日に医師3人と私と妻で検査結果を聞きました。やはりアスベストが原因らしく、かなり深刻だったようで肉腫型の悪性胸膜中皮腫ステージⅣと確定診断されました。左肺には全体的に悪性腫瘍があり、進行が早く、「手術をしないと余命3ヶ月、手術して来年の正月を迎えれるよう頑張りましょう」と言われました。最初は病名を言われても意味が分からなく、がんではないんだと思いましたが、淡々と医師が話す言葉にただ事では無いことがわかり、一瞬目の前が真っ暗になりまた。北大では肉腫型では手術が難しいと言われましたが、若いので、手術しましょうと言われました。セカンドオピニオンの話も医師からありましたが、一刻を争うので妻とも相談し、北大での手術をお願いしました。治療は標準治療で、手術 (左肺全摘出)→放射線治療→抗がん剤をして、それで腫瘍が再発すれば、半年ほど前に認可されたオプジーボを投与すると言われました。手術は 2月 20日なので、とりあえず退院して良いとの事で、一時退院しました。
 同年2月18日、病院に入院。主治医から再度手術の説明がありました。若いので全てにおいて有利だとの話があり、少し安心しました。
 2月 20日の手術当日はこれと言って慌てるわけでもなく落ち着いていました。「なるようにしかならない」と思っていたので、あまり考えないようにしていました。術後、手術は成功したこと、検査の結果、肉腫型が二相型、ステージも変わりステージⅠBで、腫瘍もとれやすく肋骨も3本とる予定が1本で良かったようで「これなら手術は最初から勧めていた」と主治医が言っていました。術後はICUに入りましたが、首を少し振るのがやっとでした。その夜、胆振地方中東部の地震の影響で北大も震度5弱で回りの器具類が強く揺れました。もし倒れてきたらかわす事が出来ないのでぶつかったら死ぬかもしれないと思いました。
 手術前は病気に対しては意外と冷静でしたが、術後は今までにはない不安と体の不調で、幻覚を見たり寝られなかったり大変でした。顔を洗うにもきちんと息は出来るだろうか、シャワーを頭からかけても大丈夫だろうかと色々な不安がありました。車の運転に不慣れな妻に、「毎日病院に来るのは大変なので毎日じゃなくて良いよ」と言いましたが、やはり無理だったので毎日来てほしいとお願いしました。妻が居る時間は心が安らげたので、とても感謝しています。
 3月14日に退院しました。久しぶりの我が家で安心するはずが何かの異変に気づきました。やる気も起きず自分じゃないみたいな感覚でした。恐らく鬱だと思います。1週間程で大分良くなりました。2階に上がるにも息切れがするし、外に出ると寒いので肺が痛いというか苦しくて長く居れない状態でした。普段の生活にこれ程まで支障があるとは思いませんでした。こんな状態で仕事に復帰できるのか、短大(保育科)1年生の長女の授業料は払っていけるのか、自分のせいで夢を諦めさせるのかとか、不安で寝れない日々が続きました。 2年経った今でも不安で寝られません。
 同年4月下旬から放射線治療を30回、6月中旬に抗がん剤を3クールして8月中旬に終了。その後は経過観察でしたが、同年10月に再発し 11月よりオプジーボを始めています。副作用にも色々悩まされました。耳鳴り、背中の痛み、空腹感、満腹感が無い、傷口周り麻痺、背中や傷口周りの痒み、持病のポスナーシュロスマン症候群が悪化、呼吸が苦しい、午前中にダルさや眠気がある、喉に違和感があり飲み込みに支障あり、たまにむせる、体の右側だけ冷たい、右側だけ汗をかく、足ムズムズ症候群、天気が悪い日は体調が悪い、冬になり冷たい空気を吸うと息が吸いにくく少し呼吸困難になる。2年経った今でも副作用には悩まされ辛いです。

 2020年9月末で会社を退社する事を決意しました。上司は、復帰しても仕事はサポートしてくれると言ってくれましたが、身体的にも精神的にも周りに迷惑が掛かると思い、身を引く決意をしました。決断する時は悩み、今でも辞めた事を後悔してます。45歳で働けないのはとても辛いです。社会から追放された気分でどう受け入れていいか未だに分かりません。

 2021年3月に脇腹に痛みがあり、CT検査すると再発との事でした。腹部の脾臓に腫瘍が出来ており、オプジーボは30回で終了となり、4月に抗がん剤を2回行ない、CT検査しましたが、小さくならないため抗がん剤を中止し、6月中に手術することになりました。

 体が不自由なため何かをやるにしても制限があり、お金の掛かる事は経済的にも大変で出来ないため生きていくにも楽ではありません。自分の不注意で病気になったならある程度仕方なく受け入れられるのかもしれませんが、ただ仕事をして、ただ息をしていただけで、左肺も失い、仕事も失い、将来の命、希望さえ失いました。奪ったのは国なのに、自分達の都合の良い制度を作り、800億もの資金を集めて上手く活用しないで、何も悪くない人達に苦しみを与えて、自分達は仕事の一部の様にしか思っておらず、仕事が終わればプライベート時間で家族と過ごしたり趣味などに没頭できるかもしれないが、自分たちは24時間病気の事や家族の事、将来の事、いつ死ぬか分からない不安な状況の中で生活してます。全ての不安を取り除けるような制度を作って安心して暮らしていける様にして下さい。(21年6月14日記)