センターを支える人々:池谷美衣子さん(東海大学スチューデントアチーブメントセンター講師/博士)

働くことをどう学ぶか|教育実践の現場から

 その頃、私はある卒業生から仕事の相談を受けていた。夢を叶えて教育関係で働くその卒業生は、4年目の職場で増え続ける業務量に体調を崩しつつあった。周囲から期待され、それに応えきれない自分を責めていた。上司とは良好な関係でありながら、あるいは、だからこそ、つらさを言えずにいた。今の業務量をしんどく感じるのは自分が未熟だからなのか、客観的に見ても過剰なのか、意見を聞きたいという相談だった。
 働くことをどう学ぶのかは、実はかなりの難題である。学生・生徒が自分の将来を展望し、職業を選択することは、学校から職場へ移行する上では必要だし重要である。一方で、その展望が絵空事でなく、現実に根ざしたものであるためには、労働をめぐるさまざまな問題状況にも出会う必要がある。
 ここでは、私と神奈川労災職業病センターとの出会いの場でもあった過労死に関する啓発授業検討会議での約4年半にわたる試行錯誤と、その現時点での到達点として作成された学習冊子『「知る」「聴く」「動く」の3ステップで学ぶ過労死』を紹介する。

「働くことが怖くなった」

 過労死等防止対策推進法(2016年10月施行)を受け、厚生労働省による学校への講師派遣事業が始まった。生涯学習・社会教育の立場から過労死遺族による社会運動を研究していた私は、東海大学への着任(2017年4月)を機に、担当授業で講師派遣事業を利用し、神奈川の弁護士・遺族に講義を担当いただいた。その授業について意見交換をしようと始まったのが、神奈川県下の弁護士・遺族・労働団体・大学教員による啓発授業検討会議である。その後、会議は不定期ながら約4年半にわたって続き、他大学や中学・高校での啓発授業を対象に、各授業での学生・生徒のコメントを皆で検討したり、実際に授業見学に伺ったりと、学生・生徒に過労死問題をどのように伝えるのかが熱心に議論された。
 啓発授業で弁護士や遺族の熱い思いが伝えられる中で、私たちは学生・生徒から「働くことが怖くなった」「社会に出ることが不安だ」というコメントに多く出会うようになる。過労死問題の深刻さが十分に伝わり、労働条件の重要性が理解されたという点では、これらのコメントは「啓発」の成果と言えるかもしれない。しかし、最終的に恐怖や不安を感じさせる授業が、果たして教育実践であっていいのか、という議論が、そこから始まることになる。いま振り返ると、このような議論ができた背景には、参加されていた複数の過労死遺族が元教員であり、教育実践のあり方をめぐって問題意識が共有できたことが大きかったように思う。

参加型授業で過労死問題の解決策を考える

 過労死の悲劇や深刻さだけが強調されないためには、どのような授業実践が望ましいのか。私たちは次に、課題解決に焦点を当てた参加型の授業づくりに取り組んだ。実際に起きた過労死事件に対して具体的な再発防止策や社会的な解決策を考えることを目標に、教材やワークシート、参加型の授業展開を詳細に記載した学習指導案を作成し、啓発授業の機会を得ては実践と改善を繰り返した。リアルな過労死事件を知って、最初は「しょうがない」「できることはなにもない」と諦観だけを示す学生・生徒も、グループワークを通じて様々な改善策のアイディアが黒板を埋め尽くし、実際に最前線で活動する弁護士や遺族からそれらのアイディアを肯定されることで、「学生の立場でもこれだけの解決策が出てくるのだから、働く人や企業・社会が本気になれば過労死問題は解決できるはずだ」という反応を見せるなど、学生・生徒の受け止め方にも変化が垣間見られた。
 解決可能なものとして過労死問題を伝えることは、自らの参画によって職場の労働環境が変えられるという希望を伝えることでもある。検討会議から生み出されたのは、テーマの重さを引き受けた上で、それでもなお明るさを含んで終えられる「過労死の学び方」であった。そこには、喪失の悲しみの中から希望を見出して歩んできた過労死問題に対する社会運動の経験が、そのまま凝縮されていたのではないだろうか。

学習冊子の作成

 以上の取り組みを経て構想されたのが、学習冊子『「知る」「聴く」「動く」の3ステップで学ぶ過労死』(神奈川過労死対策弁護団・神奈川過労死等を考える家族の会編・著)である。これはSTEP1・知る「過労死って本当にあるの?」で基本的な知識を学び、STEP2・聴く「過労死で突然大切な人を失ったら…」で遺族の経験談とこれまでの活動から学び、STEP3・動く「過労死のない社会のために」で働く当事者や周りの人、職場や企業、社会全体の3つの段階で、それぞれができることを学ぶ構成になっている。さらに、末尾には「STEP +・深める」を設け、働くことに関わる探求学習のヒントとしてテーマやキーワードを掲載した。12頁に収めるべく、検討会議では最初から最後まで内容精選が中心であったが、神奈川労災職業病センターには本冊子の構想段階から執筆・刊行まで全面的にご協力いただいた。

良い出会いとなるために|「啓発」を超えて

 冒頭にあげた卒業生からの相談は、この学習冊子作成の最終段階の頃であった。学生・生徒が「完成品」として職場に送り出されるわけではない以上、職場もまた、経験を通じて人が育つ場であってほしい。未熟さを理由に職場から退く道理はないだろう。一方で、「いい仕事をしたい」からこそ、職場での相談や交渉、主張が必要になる時があり、それは必ずしも誰かと敵対することを意味しない。私はそのことを、これまで本当に伝えてきたのだろうか。「100%で働けないなら、職場では邪魔な存在になってしまう」「職場で弱みを見せてもいいという考えには、全然納得できない」という卒業生の切実な必死さに、新たな宿題を与えられた思いがする。
 私の所属する東海大学スチューデントアチーブメントセンターは、学生生活のあらゆる側面に「シティズンシップ(市民性)の育成と社会参画の促進」という価値を浸透させることをミッションとする(2021年度新設)。この部門では、必修化された教養教育だけでなく、学生それぞれの関心や問題意識から参加できる社会的活動の機会提供やサークルなど自治組織の支援など、正課教育・正課外教育の両輪を通じて、学生と社会をつなぐことを志向する。学校段階を問わず、社会に開かれた教育実践が求められる今日の学校現場において、学生・生徒が、社会のなかのどの課題とどのようにして出会うのか。それは、出会いを教育として仕掛ける側への問いかけとして、一層重みを増している。結局のところ、4年半の啓発授業検討会議もまた、そのことを繰り返し問い続けた場であったに違いない。
 「過労死を防ぐためにできること」の正解は、まだどこにもない。働くことへの不安や恐怖をやみくもに煽らないこと。解決可能なものとして過労死問題を伝えること。そして、職場の人間関係を敵と味方に二分せず、その中間を豊かにすることで、人が育つ場にしていくこと。学生・生徒と過労死問題とが良い出会いとなるためには、「啓発」の発想を超えて、私たち自身が考え続ける必要がありそうだ。