センターを支える人々:佐藤 真起さん(スペース・オルタ)

消費文化ではなく生活文化を見つめて

 私はここ30年ほど、私の生地である北海道を含む日本の北方先住民族アイヌ民族の復権運動に深く係りながら、この10年近くは福島原発事故で福島から神奈川に避難してきた方たちの集団訴訟への支援も続けている。両方ともに、ふるさと喪失に抗う人々の想いと闘いに伴走してきた訳だ。
 
 生業の主軸は、新横浜駅の近くにある「スペース・オルタ」という多目的小ホールの運営・管理だ。キャパ120席のこのスペースは、生活クラブ生協神奈川が1985年の成長期に建てたオルタナティブ生活館というビル地下に開設した文化施設である。
 開設からしばらくして、当時巻き起こったバンドブームが雪崩れ込み、中学から大学までのアマチュアバンドの自主公演のメッカとして、ラジオ番組で紹介される賑わいを見せていた。公的施設では望めぬ破格の自由度で、若者たちは設備・機材を壊さぬ限り、自分たちのやりたいことを大いに謳歌し実現していったはずである。
 そのバンドブームも1991年のバブル崩壊後徐々に鳴りを潜め、90年代終わり頃からは小演劇や上映会や講演会、大人たちの自主コンサートの会場としてもっぱら使われるようになる。
 ライブも上映会も講演会や演劇も、小さな空間にお客が集い互いの体温を感じ合い、感動と体験を共有することで成立する場の文化である。つまりこの30数年間、このコロナ禍では考えられない毎日を迎え入れ、サポートする日々に従事してきたのだった。

 一方、オルタナティブな文化の場を開く自主企画群も私なりに立ち上げてきた。欧米や日本の即興パフォーマーを組み合わせてのオリジナルステージ(感性の組み替えの場)や、メッセージ性のあるアーティストのステージ、社会問題のドキュメンタリー上映会(他者の痛みを知る場)、民俗/民族の冠婚葬祭や催事のドキュメンタリー上映会や地方の芸能を学ぶ場の開設(生活文化の基層を知る場)、アイヌを含む世界の先住民族を招いて祈りの場を開いたり(基層文化の想像力に触れる場)、海外を含む社会運動の実践家との交流(社会変革をイメージする場)などなど。ここ15年ほどは市民運動や社会運動とリンクした企画を心がけ、最近はzoomイベントも開いている。
 その中心にある想いは、オリンピック開催セレモニーの如き過剰で仰々しい演出に踊らされるイベント(出来事)ではなく、等身大のイベント(出来事)に潜む豊穣さをフォーカスしたいという願いだ。その願いが、小ホールの運営・管理というルーティンをハミ出し、オルタナティブなミュージシャンの地方ツアーへのサポートや、祭りや民族芸能の取材、先住民族の聖地や闘いの場への訪問などに私を駆り立て、結果、いまでは毎年のいくつかの祈りの場の開催にかかわるようになっている。

 さて、本紙とのかかわりだが、私は出版・編集・デザインをしていた時期もあり、時折協力を乞われるのだが、本紙表紙のベースデザインも私がさせていただいている。また中皮腫サポートキャラバン隊が年内発行予定の「中皮腫患者白書」のレイアウト・デザインにもかかわらせていただいている。
 神奈川労災職業病センター鈴木江郎氏とは最初の方で触れた「福島原発かながわ訴訟を支援する会(略称・ふくかな)」での運動仲間なのである。このふくかなでも私はもっぱらチラシや毎回の機関紙、資料集などの編集・レイアウトを受けもち、また東京高裁で12月17日に9回目を迎える控訴審では、ZOOM配信や報告会の音響関係や舞台設営、時には司会などもバタバタとやらせていただくことになる。

 ところで、皆さんは、原発事故を起こした東電の「3つの誓い」というのをご存知だろうか? 「最後の一人まで賠償貫徹」「迅速かつきめ細やかな賠償の徹底」「和解仲介案の尊重」という語句が、東電WEBページにいまも堂々と掲げられていて、「最後の1人が新しい生活を迎えることができるまで、被害者に寄り添い賠償を貫徹する」と説明文が続いている。
 しかし裁判を通し見えてくる東電の姿は、事故10年での強引な幕引きを目指し、最近は「支払った賠償金を原資に住宅を確保した時点で避難は終了している。賠償は既に過払いだ。」と驚くべき主張を展開し、各地の訴訟でも過払い論を展開し、住宅確保、転勤、進学に伴う住居変更を「避難の終期」と一方的に決めつける言辞を堂々と主張し出してきた。また、この裁判で原告たちが賠償を求める「ふるさと喪失慰謝料」について、東電は「ふるさとなどという法益(※法で保護されるべき利益)はない」と、何度も言い切ってきている。

 何やら、言葉が壊れ、人の世の基盤がおかしくなり始めている。仕事も人生も全てが評価の対象になり、点数が付けられお金に換算されて恥じない世の中になりつつある。だが、ふるさとを作り上げてきた先人の一人一人に点数を付け、その営為の費用対効果や効率性を論(あげつら)うグロテスクさを、私たちの感性はまだ捉えることはできる・・・とは思うのだが、どうだろう?