1980年には、鉄道工場における 石綿健康被害の実態を調査していた!
旧国鉄・JR大井工場アスベスト裁判を支援する会
事務局長 小池敏哉
この裁判は、Kさん(21年1月逝去)が、石綿ばく露により肺がんを発症したとして、20年7月に旧国鉄とJR東日本を相手に損害賠償を求めて提訴したものです。
4月26日に第8回口頭弁論が開かれ、雨の中、24名が傍聴に駆けつけました。14名が入廷、他は控室で待機となりました。今回から裁判官が交代しました(裁判長:大竹敬人裁判官、芦田泰宏裁判官、中原諒也裁判官)。原告が準備書面⑷と甲号証を提出。被告は「大井工場社員2~3名の陳述書を提出したい」と発言。
原告代理人の山岡弁護士から準備書面⑷の概要を説明しました。鉄道車両に多量のアスベストが使用されていたこと、それを示す国等の資料や鉄道職場での石綿疾患の業務災害認定状況、とりわけ工場職場が全体の認定者の55%を占めていること、原告職場OBらの石綿健康管理手帳取得運動で明らかとなった、原告を除く健診受診者23名のうちプラーク等の有所見が14名にのぼり、石綿疾患予備軍であること。また、肺がんの原因はタバコという被告の主張に対し、原告の石綿暴露と肺がん発症・死亡は、従事期間や職場実態から因果関係が充分あることを述べました。被告が「安全に配慮していた」とする主張には、今回提出した元同僚の陳述書を引用し、職場実態から具体的に反論。さらに、石綿被害の予見可能性を否定する被告の主張に対し、1980年に札幌鉄道病院の国鉄の医師らが鉄道工場で石綿健康被害が多発している実態を把握・調査し論文発表していた事実を突きつけました。
これに対し被告代理人は「反論書面を出したい」と述べるにとどまり、2ヶ月程の期間を要望。原告代理人の福田弁護士は、今後の考え方について、「陳述書を提出した同僚2名と原告ご子息を証人として申請したい」と発言。
裁判長から、次回の被告反論書面をもって次々回は証拠調べに進むべく日程の相談を行うと発言がありました。次回は7月13日(水)13時10分~となりました。
元同僚の陳述書より(一部抜粋)
私は58年に福岡県柳川市で生まれ、現在63歳です。いとこが国鉄職員として門司で働いていた関係から国鉄の採用試験を受け、80年4月1日に国鉄に就職しました。分割民営化直前の87年3月に大井工場に異動となり、鉄工職場に配属されました。鉄工職場は金属加工場、現車鉄工、工機などがあり、私は現車鉄工に所属することになり、そこでKさんと一緒になりました。現車鉄工職場での私の職種は製缶工で、Kさんは電気溶接工でした。
▼Kさんとの関係
Kさんとは、87年3月に大井工場に転勤して現車鉄工職場に配属になったときから一緒に働きました。Kさんは、58年から製缶職場(現車鉄工職場)で電気溶接工として働いており、私が入ってしばらく後の88年頃からガス溶接担当となりましたが、いずれにしても大先輩でした。なお、Kさんは96年4月に金属加工場に異動となり、私が同じ職場で一緒に働いていたのは、87年3月から96年3月までの約9年間です。現車鉄工の職場の人員は、私が配属された87年頃は50名程でしたが、だんだん人数が減り、Kさんが金属加工場に異動した96年頃は14名程度でした。それは、205系のステンレス車両などが増えてきたことと関係があると思いますが、その分人員が減っており、Kさんや私たち現車鉄工職場1人ひとりが担当する業務量が減ったわけではありません。
▼業務内容
現車鉄工の作業は、車体検修場(車修場)や車体改造場で車体の外板、ドア周り、窓周り、運転室前面、雨樋、車内の床板や脚台(車内の椅子)の受け部分、便所、床下の機器類などについて、修繕票でオーダーされた腐食部分の交換・加工修理などです。
また、現車鉄工職場の職種としては、①製缶工、②ガス溶接工、③電気溶接工のほかに材料班があります。最も典型的な作業として、車体外板の腐食部分を切断、溶接によって交換するというものがあり、上記①②③の3種類の職人が、多くの場合、製缶工2人、ガス溶接工1人、電気溶接工1人が一組になって作業を行います。その手順を述べると、車両が整備場に入ってくると、入場ピットで入場検査係が車体の腐食部分を確認し、切り取りが必要な車体部分にチョークでマークを付けます。そして車体が車修場に移され、マークされた部分に製缶工が切断のためのケガキ線を入れ、その線に沿って製缶工が錆取機で切断面のペンキ・パテ(錆止めと塗装の間の下地)を取り除いて鉄材をむき出しにし、さらに製缶工がアルゴンガスによるプラズマ溶断を行います(この切断は以前はエアチッパーで行っていました)。そのあと、ガス溶接工が、外板と側柱とがポイント溶接された接合部分をアセチレンガス溶断によって切断し、腐食した外板部分をはがし取ります。外板の一部が除去されたら、製缶工が車体の切断面をエアサンダーで研磨し、そこに新しい鉄板をはめ込んで、電気溶接工がアーク溶接をします。溶接した部分を製缶工が再度エアサンダーで研磨して、一通りの作業が完了することになります。
その他の工事として、例えば、自解結(連結器を自動で解結する装置)、ATS-PやATS-SN(自動列車制御装置)などを新しく取り付けるため使わなくなった床下の金具をガスで切断して撤去し、新しい金具をアーク溶接で取り付ける作業があります。その他、車両の床下に吊ってある器具の鉄金具の切断はガス溶接工が、付け直しを電気溶接工が行いました。ここでも製缶工がエアサンダーで切断面を磨く作業がありました。このような切断、取付けの際、電線管を火の粉や熱から保護するため石綿板を折って当てがったり練った石綿をはり付けるなどして使っていました。
▼石綿被曝状況
鉄鋼車両の外板、床等には、石綿を含有した錆止め塗料であるアンダーシールが吹き付けられており、また石綿含有の断熱材の吹き付けもありました。その他、台車関係、電気関係、艤装関係等の各所にも石綿が使われていたようです。
現車鉄工職場で典型的な、前記の車体の外板切断修繕作業について言えば、この作業は製缶工、電気溶接工、ガス溶接工の職種4人ほどが1組になってすぐ近くにいる状態で行われます。そして、外板にはアンダーシールが塗布され、あるいは石綿材が吹き付けられたりしていますので、これをエアチッパーで切断したりプラズマ溶断したりすれば、その石綿材料が粉じんとなって飛び散り、あるいは石綿材料がはがれ落ちたりします。また、製缶工が切断面をエアサンダーで磨くと、エアサンダーからは圧縮空気が噴出されているので、石綿を含んだ粉じんが辺りに舞い上がります。そして、1組になった職人4人ほどは、5m位の範囲内の近くにいて共同作業を行うため、4人ともこの粉じん化した石綿を吸い込んだり剥落した石綿材料に触れることになります。
また例えば、車両の床下の電線配線管の近くの溶接・溶断をする際には、塩化ビニール製の配線管に火花が散ったり、熱によって焼損しないよう、断熱材として、厚さ10㍉程度の板状の「石綿板」を折って濡らして粘土状になった石綿を配線管に貼り付け、さらにその配線管の周りを石綿板で火花から保護したりしていました。そして作業後は、溶接・溶断の熱で乾いた貼り付けた石綿を手で剥がしていました。このように石綿板を折ったり剥がしたりする際にも、私たちは石綿粉じんにさらされていたものです。
さらに、車両延命のための更新工事としての車両の大規模改修業務では、例えば、外板や床板の相当部分を剥がすため、外板内に詰められていた石綿や、剥落したアンダーシール、配線保護のために利用した石綿の粉じんが大量に発生することになりました。
また、車体検修場では、一つの車両に対して多くの種類の作業が並行して行われていましたが、現車鉄工担当者を含む多くの作業で多量のほこりや粉じんが舞い散ったり溜まったりするので、1日に何回も、「気吹き」と呼ばれる作業が行われました。これは、車両内の粉じんやほこりを空気圧で吹き飛ばす作業で、同じ車両について1日2~3回行われていましたが、気吹きが始まると、粉じんが大量に舞い上がり、あたりが霞んでしまう状態になるのでした。そこには当然、石綿粉じんが混じっており、私たち職員はその粉じんを繰り返し、長期にわたって吸い込んでいたのです。
以上のほか、Kさんは88年からは電気溶接工からガス溶接工に変わりましたが、ガス溶接に用いるガスバーナーの火口には糸状の石綿がパッキンとして巻かれており、これが熱にさらされてぼろぼろになるため、月に2回程度、その交換を行っていましたが、ぼろぼろの石綿に触れれば、石綿を吸い込むことになるのは明らかで、この作業でも石綿にさらされていたのでした。
▼金属加工場での業務内容と石綿被曝
Kさんは、96年4月から金属加工場に異動し、1年間勤務し、そこでガス溶接班に所属していました。そして、車両の床下に収納している各種機器、接触器箱、電気機器の入っている箱や、電動発動機制御機器の外箱等の車両部品の製作・修理や、部品用の棚等の作成などを、ガス溶接・溶断作業によって行っていました。
金属加工場では、車両本体の修繕はしませんが、修理する機器や機器箱自体に断熱材として石綿が貼り付けられていることがあり、その石綿を剥がしたり溶接作業を行うため、また、機器の溶接・溶断を行うために保温材や保護材として石綿板等を用いることがあり、これらの作業で石綿にさらされていたことになります。