センターを支える人々:姉崎 憲敏さん(旧国鉄・JRアスベスト基金事務局長)

プロフィール

1954年 山形県生まれ
1972年 国鉄入社 大船保線区で枕木やレール交換(夜勤の仕事)
1976年 国鉄労働組合(国労)横浜支部青年部書記長
1982年 県評 青婦協(青年婦人協議会)議長
1987年 分割民営化。不当配転で有楽町の飲食店のフロア係や駅の自販機の飲料補填(鎌倉ベンディング)。
1996年 国労横浜支部書記長(当時鎌倉ベンディング所属)
1999年 国労横浜支部専従となる(この間に国労の組織改編あり。国労神奈川地区本部発足)
2006年 国労神奈川地区本部書記長(専従)
2010年 専従解除となり、横浜駅北口改札で働きながら国労神奈川地区本部委員長兼任
2013年 東逗子駅に異動
2016年 62歳で早期退職
現 在 旧国鉄・JRアスベスト基金事務局長

センターとの出会い

 国労神奈川で以前から腰痛の労災認定など話は聞いていましたが、自分にとって直接関わったのが、大船駅員が健康診断の採血中に看護師が誤ったところに刺してしまい、手が動かなくなったFさんの労災事案からですね。当時センター事務局長だった西田さんが担当していました。あと、衣笠駅員で脳出血発症して労災申請したKさんの事案とか(業務外)当時横浜支部の書記長でしたので、支部傘下の組合員事案だったので支援していました。

旧国鉄・JRアスベスト裁判へ

 06年に神奈川地区本部の書記長になってすぐのことでした。前年にクボタショックがあり、その直後に旧国鉄のアスベスト被害問題があり、西田(事務局長)さんが鉄道運輸機構へ遺族たちと掛け合って・・・・その時の機構の態度もあり、裁判を決意した加藤さんのご遺族である娘さんの大前麻衣さんの話を聞き、国労としても支援をしていこうと決めました。

-裁判での街宣行動で、横須賀の被災者さん達の出会いとなるわけですね。

 はい、ここで横須賀じん肺被災者・アスベスト被災者の会の皆さんにお世話になりました。当時は横須賀の皆さんも裁判をされており、浦賀の下請け裁判の原告の皆さんや、また旧国鉄鷹取工場で同様の裁判をされていた原告とのつながりもあり、色々盛り上がっていましたね。

-被災者の会の落合会長との出会いもありました。

 はい、当時の落合博文会長は、米海軍横須賀基地アスベスト裁判の原告もしておられました。裁判終了後の交流会で落合さんがお酒を飲みながら、アスベスト被害に対する彼の思いに動かされました。被災者の会の皆さんと国労との「波長」が上手く合いまして(苦笑)

-終わった後の交流会でも盛り上がったわけですね。

 当時は裁判終了後毎回交流してました。ここで横須賀の運動を色々と知るきっかけとなりました。

旧国鉄・JRアスベスト裁判は勝利和解、旧国鉄・JRアスベスト基金が設立

 横須賀のじん肺・アスベスト被災者救済基金をモデルとしました。08年の和解解決後、後に続く人たちのために立ち上げました。とっかかりとして旧大船工場(現鎌倉総合車両センター)退職者の掘り起こしに着手しました。退職者会の協力を得て集団的に取り組み、現在石綿による健康管理手帳取得者も100名を超えました。大船の取り組みから、横浜や国府津の退職者にも広がり、労災(業務災害)の相談へ繋がった人もいます。現在は鉄道退職者組合東京地方連合会の方からも相談が来るようになっています。そして神奈川や首都圏だけでなく全国の退職者からも相談が寄せられるようになりました。

 基金の構成として現職の組合員と退職者組合と現退一致で会議を開いています。センターにも関わっていただいて相談・申請実務や会議の書面作成なども携わっていただいています。この運動が工場を離れている人たちの相談にも結びつき、またエルダー社員(定年再雇用)の雇用終了に伴い健康管理手帳を取得したいという相談も寄せられるようになりました。

多岐にわたる相談

 そうですね。旧大船工場の退職者でも静岡(御殿場線沿線)在住の方も多いので。また、三島在住の方で実は熊本県松橋出身の方もいることがわかりました。アスベスト鉱山があるところです。職歴的にも手帳は取得できたので、フォローが必要と思っています。

-現在は国労アスベスト基金の事務局長として活躍されてますが、センターへの期待など

 アルバイトと年金受給で頑張っています。国労アスベスト基金の事務局長はボランティアです。労働情勢やコロナ禍のこともあり、組合内もですが、コミュニケーションがとても薄くなってきているなと危惧しています。もう少し密に、またセンターも労働組合との付き合いも密にしていって欲しいなぁと思います。その中から労災職業病の問題は拾えるのではないかと思っています。センターの今後の活躍も期待しています。

-ありがとうございました。