東日本建設アスベスト訴訟・第1次原告Sさんの意見陳述
私は、2016年7月1日に肺腺癌で亡くなった被災者の妻です。今日は、夫が仕事でアスベストにばく露した事、闘病の事、建材メーカーへの思いなどを述べようと思います。
仕事におけるアスベストばく露について
夫は、高校卒業後、メーカー社員として40年間、定年まで勤めあげました。2級建築士の免許を持っていたので、会社の工場、施設などの新築・改修・解体工事にあたり、現場監督として各種の工事を行いました。工場や施設は全国に所在しており、夫は、地元のプラントはもちろん、福井や厚木や大阪など、各地の工場や研究所の工事にも参加していました。夫は責任感が強く、几帳面な性格だったので、現場監督の仕事に留まらず、自らアスベストが含有している建材の加工切断作業も工事業者と一緒に行っていました。あとで、当時の工事業者の方から、「Sさんは非常に真面目で几帳面なので仕事がやりずらかった」と言われたほどでした。
家ではさほど仕事の話をしなかった夫が、2005年のクボタ・ショックのニュースを見た時に、「俺もアスベストを使っていたので危ないな」と、かなり深刻な顔をしていたのを覚えています。
ある時、「上司から仕事を頼まれた。工事で危険なものを扱うから、作業着は洗濯業者を通じて洗濯する」と心配そうに言われた事がありました。今になって思えば、危険なものとはアスベストの事だったのだと思います。
肺がんの闘病について
夫は退職してから、私と一緒に毎年、町の健康診断を受けており、夫婦とも何の異常もなく医者に褒められていたほどです。ところが、2005年5月に肺のCT検査を受けた大学病院で「Sさんは過去にアスベストに関する仕事をしていましたか?」と言われました。3ヶ月の経過観察の後、精密検査のためがんセンターを紹介してもらったところ、ステージ4の肺腺癌の宣告を受けました。突然の宣告だったので私も夫も頭が真っ白になり、とても動揺しました。
夫のがん部位は神経が集中している場所だという事で、最初から痛みが激しく、亡くなる直前まで、緩和ケアの医師が痛み止めのためにモルヒネを使いましたが、痛みは完全には消えず、夫は絶えず痛みに苦しめられていました。
最初は抗がん剤で小さくなったがんも、だんだん効き目が無くなってしまいました。そんな中2015年12月にオプジーボの使用が肺がんにも適用されたことを知り、私は藁をもつかむ思いで医師に相談したところ、「Sさんは高齢だし、効き目が期待できない」と言われてしまったのです。
その後、種類を変えながら抗がん剤を続けていましたが、副作用ばかりが強く、夫の体がだんだん衰弱していくのを見ていられず、私と息子が夫に「抗がん剤は止めた方がよいのでは?」と言ってみました。すると夫は、「お前たちに何が分かるんだ。俺はせめて80歳まで生きたかったんだ。まだやる事がたくさんあるんだ。自分の親の歳まで生きることができないのか」と言われました。それまで、淡々と自分の運命を受け入れていると思っていましたが、夫の本心を知って打ちのめされてしまいました。
主治医とも話し合い、2016年4月半ばに緩和ケア病棟に移り、2ヶ月後、発病から約1年で夫は逝ってしまいました。夫は40年近く、時限爆弾を抱えて生きていたのだと思います。がん宣告を受けるまで年3回の旅行、30坪の畑を借りての野菜作りなど前向きに退職後の人生を楽しんでいたので、突然奪われてしまった命、どんなに悔しく無念だったかと思います。
この間、私自身も8㎏も痩せてしまい、心療内科を受診したりしました。その時の心のトラウマのためか今だに時折激しい心の落ち込みがあり、今も薬を服用しております。ただ一つ、亡くなる直前、意識がしっかりしている時、「Sさん、何か言い残すことは無いですか?」と聞かれ、涙を流しながら私への感謝の言葉を言ってくれたのです。その言葉によって、その後の私の人生は何とか支えられている様に思うのです。
建材メーカへ伝えたい事
海外ではかなり早くからアスベストの使用が禁じられていたにも関わらず、日本ではずっと使い続けておりました。その間、建材メーカーは莫大な利益を上げていた事でしょう。しかしその裏では、私たちの様な壮絶な体験をして、命を落とした当事者家族がいるのです。国は責任を認め賠償が始まりました。建材メーカーもその非を認め、被害者に向き合って頂く事をお願いします。