センターを支える人々:水澤靖子さん(福島原発かながわ訴訟を支援する会)

公害問題との出会い そして4・26チェルノブイリ原発事故

 港町診療所を初めて訪ねた時、入口のプレートで田尻宗昭さんが神奈川労災職業病センターの元所長だと知った。田尻さんが「公害Gメン」として四日市で活躍していたのは私が高校生の頃、公害問題に関心を持ち、大学は化学科に進学。意外なつながりを感じたので、この原稿を引き受けた。
 1970年の「公害国会」で関係法令が整備された。都道府県と保健所設置市で「化学職」の採用が始まり、先輩たちに続いて地方公務員試験を受けた。横浜市役所に滑り込み、産業廃棄物の担当から社会人スタート。公害関連法令を読むと、条文のあちこちに「放射性物質は除く」の文字、当然別の法律で規制されていると、その頃は思っていた。
 1986年4月26日、旧ソ連のチェルノブイリ(ウクライナ語ではチョルノービリ)原発が爆発して放射性物質が大量に拡散。勉強しないとまずいと思い、飛び込んだのが高木仁三郎さんの連続講座だ。一番問題だと思ったのは、プルトニウムを利用する核燃料サイクル計画。1992年のあかつき丸によるフランスからのプルトニウム返還輸送をきっかけに、プルトニウム利用に反対する神奈川の活動に参加。1995年から核燃サイクルの最新情報を神奈川の皆さんに伝えるミニコミを数名で発行、2001年からはメルマガで継続していた。

福島原発事故でわかった「放射性物質は除く」悪魔の戦略

 2011年、ついに、起きてはいけない事故が起きてしまった。3月は外出を最小限に東海村周辺や神奈川県のモニタリングポストのデータをチェックして、首都圏にも放射能が流れてきていることを核燃サイクルのメルマガ読者などに送信していた。
 放射線管理区域内で発生した100Bq/kg以上の廃棄物は現在も厳重に管理されているが、福島原発から放出された放射能で汚染された食品の基準が100Bq/kgとされた。休業に追い込まれた二本松のゴルフ場が放射性物質の除去などを求め、裁判所に仮処分申請したが、漏れ出した放射性物質は「無主物(持ち主がいる物ではない)」と東電側が主張し、東京地裁も東電の主張を認めた。2012年に施行された放射性物質汚染対処特措法は、発生する地域や廃棄物の種類、放射性物質の濃度などで規制対象が細かく限定され、基準値も8000Bq/kgという甘さだ。
 子ども被災者支援法が超党派の議員立法で成立し、被害者支援が進むものと期待したが、自民党の復権により未だに理念のまま棚ざらし。一般公衆の放射線被ばく限度は年間1㍉Svだが、福島では20倍の被ばく限度を目安に除染が必要な空間線量が決められ、20倍の被ばくを目安に避難と帰還が進められている。
 事故後の福島では、子どもたちが原発労働者と同様に個人線量計を身につけて通学し、横浜市の公立学校にも空間線量計が配られた。実際に今でも汚染されているにも関わらず、放射能が不安だと声を上げたり、避難を続けている人は「風評加害者」だという攻撃までおきている。
 放射性物質・放射線規制の範囲は放射線管理区域の中だけ。一般社会は無法地帯だったことがわかった。そこでは公害問題の中心理念「汚染者負担の原則」も踏みにじられた。

暮らしを返せ ふるさとを返せ 子どもたちを守れ

 被災した場所も避難の状況も、それまでの生活条件や考え方も多様な福島原発かながわ訴訟原告団を率いるのは、元朝日新聞記者で水俣病の取材経験がある村田団長。かながわ訴訟第1回口頭弁論が横浜地裁で開かれた2014年1月に、かながわ訴訟を支援する会(ふくかな)が発足した。被害者支援の相談活動を進めてきた弁護団と、ふくかなに集った人権・平和・反原発など多様な活動を神奈川で続けている市民が力を合わせて10年。今年1月に東京高裁の判決が出たが、2022年6月の最高裁判決後の流れを変えることができず、国の責任は否定された。最高裁で国の責任を認める逆転勝訴を手にするために、村田団長が先頭に立って、各地の訴訟団はもちろん、多くの団体と連携して、史上最悪の核災害をすでに乗り越えたかのような「世論」を変えようと動き始めた。
 放射能汚染から子どもたちを守るために、神奈川でも2014年から甲状腺エコー検診を実施してきた。関東子ども健康調査支援基金の運営方法と検査機材のバックアップがあれば神奈川でも検診が可能だろうと打合せ、港町診療所の会議室を検査会場に、沢田先生には担当医として加わっていただいた。横須賀中央診療所の春田先生、相模生協病院の牛山先生にも協力をお願いした。検診の申込人数は徐々に減っているが、子どもたちが成長し、保護者ではなく本人が申し込むケースが増えてきた。

悪魔たちの暗躍は破滅への道

 原発事故当時の民主党政権の元で、原子力政策が見直され「原則40年廃炉」、原子力依存から脱却していくことが決まったが、核燃料サイクル計画には手を触れることができず落胆した。高速増殖炉「もんじゅ」は2016年に廃炉が決まり、1993年着工の六ヶ所再処理工場は完成する見通しの無いまま高レベルに汚染された設備の老朽化が進んでいる。福島でメルトダウンした核燃料を取り出すことなど夢のまた夢。廃炉計画の延期が繰り返されるだろう。それでも核燃サイクル計画を維持するためには、プルトニウムを原発で燃やすプルサーマルが必須だと悪魔たちは考えている。
 脱炭素のグリーントランスフォーメーション戦略と称して原発復権が表舞台に出てきた。岸田政権では安倍政権以上に悪魔たちが暗躍しているようだ。核兵器と表裏一体のプルトニウム技術を絶対に手放そうとしない「原子力マフィア」の粘り強さと周到さに「市民力」は負けてしまうのか。自民党の支持率は最低を更新しているが、野党を名乗る右派政党が勢力を強め、政権交代の盛り上がりが見えない。
 原発事故から13年、被害者たちも年を重ねた。村田原告団長の意気は高いが、健康不安を抱えている。当時子どもだった原告も成人し、何人かは積極的に発言し活躍している。私はフットワークが重くなり、これまでのように活動できないが、身の回りの5人から、悪魔たちの嘘を伝えていこうと思っている。環境問題に目覚めた若い世代が、脱炭素には原発が必要という嘘にだまされないことを願うばかりだ。