長時間労働により脳出血で倒れた母

長時間労働により倒れた母

私の母、Kは、介護の現場でケアマネージャーという、介護が必要な利用者さんと相談して色々と調整しながら、利用者さんにより良い生活を提供する仕事を天職として働いておりました。母は、「この仕事をするために生まれてきた」とまで言っていました。
母は、倒れる約6ヶ月前、課長補佐という「名ばかり管理職」にされてしまいました。以前から深夜に帰宅し、朝早くに出社するような生活を続けておりました。しかし、課長補佐という役職にされてからは、わずかな手当で、どれだけ残業しても賃金が変わらなくなり、労務管理から完全に外れてしまいました。なお、会社にタイムカードは導入されていません。
その結果、残業中の夜に自分のデスクの側で倒れ、警備員に朝方発見されました。脳出血でした。07年9月25日の朝5時半頃のことです。発見までに時間がかかったらしく、命の覚悟をしておくようにと医師から言われました。手術の結果、幸いにも命は取り留めましたが、重度の右半身麻痺となり、倒れるまでの直近3ヶ月80時間以上の残業が認められて労災認定を受けて現在に至ります。労災、障害ともに一番重い一級認定です。車椅子での生活となり、言葉にも重い障害を残しています。

私は、朝6時前に病院から電話がかかってきた時のことは今でも忘れません。もう少し家族の私が働きかけていれば何か出来たのでは、と今だに思います。この思いは一生消えません。
その後、労組の方から労災職業病センターを紹介していただき、さらに弁護士を紹介していただき、会社に対して訴えを起こしました。
法廷で、当時の直属の上司は、どのくらい母が働いていたのか知らない、と語っていました。正しい労働時間の記録を付けさせず、名ばかり管理職としてサービス残業をさせ、いざ事件が起きれば、知らなかった→勝手にやった→やれとはいっていない→仕事をしていたとは限らないなど、会社の主張は二転三転しました。働く以上少しでも人の役に立ちたいという母の思いを逆手にとって(顧客を人質に取るように!)長時間働かせておいて、いざ露見すると、仕事場にいたからといって働いていたとは限らない、遊んでたんだろうと言い逃れをする。
こんな会社の主張が通るわけがないと思っていましたが、通ってしまいました。
結審後の和解の席でも、地裁は、「事実関係は争わない」「会社に責任がある」「損害賠償の額をどうするかだ」とずっと言ってましたが、判決日の一週間位前に急に、「脳出血と長時間労働の因果関係は認めない」、つまり、お前の負けだという連絡をしてきました。
その後、高裁、最高裁でも会社の主張が通ってしまいました。つまり、裁判所の判断では、タイムカードがないので80時間を越える残業していたとは認められない。会社の主張通り、仕事に関係なく、勝手に脳出血を起こして障害者になったんだということです。高裁で、電車のICカード記録や終電時間に会社の最寄駅にいたレシートを証拠として提出しましたが、認められませんでした。たとえ会社にいたとしても遊んでいた、という会社の主張をまる飲みでした。労基署では3ヶ月80時間以上の残業が認められていたとしてもです。信じられなかったし、今でも信じたくありません。
事実関係を争わないと言ってきたのに、最期に証拠も出させないでひっくり返した地裁。裁判官まで嘘をつくのか! これではこちらに出来ることは何もありません。働かせるだけ働かせて、何か起こっても自己管理のせいにして、会社は何の責任も持たない。悪夢のような環境にお墨付きを与えるだけです。労務管理を放棄すれば、裁判所は残業時間を大幅に削って認定し、会社に責任はないと認めてくれる。これでいいのか?これから先、母に対して下された判決は永遠に代わらない。それがくやしいです。

どうしたらいいのかはわからないけれど、同じような人は今後、絶対に増えて欲しくありません。母に対しての裁判所の判断は、ブラック企業にたいして、賃金を払わず長時間労働を限界までさせてどんどん死人や障害者を生産しても、気にせず利益をじゃんじゃん上げなさいという後押しをしているとしか思えません。
人を使い潰して利益を上げることを社会で支援するようなことがないようにしてほしい。決まりを作る側の人がここにいるなら、現状を何とかしてほしい。また、使用者側の人がいるなら、本人とその周りの人間の人生をどうしようもなく破壊してしまうことと、会社の利益を天秤にかけるようなことはしないで欲しい。そう思います。
働いて生活の糧を得て、その結果として自分の仕事にかかわった人に幸せになって欲しい。そうした志を持って社会に出た人が会社に殺されてしまうような社会を受け入れることは出来ません。
母の様な目にあう人間はこれから一人だっていて欲しくない。そう思うばかりです。

■シンポジウムに参加して

シンポジウムでは、労働問題に取り組んでいる先生や、実際の被災者や家族の方の話など、改めて感じるところの多いお話ばかりでした。
ご家族の、涙ながらに語られる、亡くなった息子さんや若者の境遇に対する言及には、言葉にできないものがありました。
被害者の実体験として、記録できる残業時間に上限が設けられていたこと、会社に残っていても仕事でなく自己啓発に使ってたんだろ?というのは、母の裁判での会社のでたらめな主張と同じでした。
また、別の方のお話で、労災を申請したら、会社から、裏切り者、出張にかこつけて不倫旅行していたんだろうと言われたというのも、母の会社内で、矢島の裁判のせいで給料が上げられないなど、母に対する印象を悪くしようとして言われたことと同じでした。
どこもそんな言い逃れや嘘を吹聴するのだな、と。目先の利益に反すると判断すると、途端に攻撃的になるのはどこも同じなのか、と。そして、そのでたらめな言い逃れが、裁判所である程度通ってしまう現状。話を聞きながら、母の裁判のことを思い出して、暗い気持ちになってしまいました。
岡田先生の上げていた、会社の責任が認められた真っ当な判例がうらやましくないといえば嘘になります。何故、裁判官によってそうした差異がでてしまうのか。どうしたらなくせるのか。お話にあった、従業員は未来の顧客であるというその視点が何故抜け落ちてしまうのか。
人間は利益のために使い捨てていい部品ではないのだと。比べることすらしていいはずがない。特に、母が勤めていたのは、社会の安心や安全をうたう社会福祉法人です。その業界でこんなことがまかり通る現状。

被災した御本人や御家族の話は、やはり傷を穿り返すようでつらい部分もあります。が、どれだけ時間が経っても、どこにぶつけたら良いのかわからない、やり場のない怒りが渦巻いているのも事実です。
こうして、話す機会をもらう度、ああすればよかったのでは、何故こんな結果に、という当時からの形容しがたい思いが沸くと同時に、こんな理不尽が許されるか、と叫びたい、知って欲しい、という思いが多少は満たされる部分もあります。
どうにかしたい。こんな思いを誰にも味わって欲しくない。当事者として発言することが、微力ながら、悲劇を未然に防ごうという運動の一部となっていればと思います。