センターを支える人々:斎藤竜太(医師・理事長)
事務局を「忖度」すると、「古い者」の自己紹介なども求めているようだ。
1939年東京生れ。本籍は岩手県。ヨーロッパでは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第2次大戦が始まった。アジアでは、すでに日本が中国侵略中で、朝鮮総督府は「創氏改名」を公布した。国内では、治安維持法の全面改悪と真珠湾奇襲の41年や42年の「横浜事件」を前にして、国民徴用令や映画検閲をはじめとする言論統制の強化などなどが強制された年である。米機による空襲が激しくなり、一人でも生き延びろ、と言って、わたし一人、岩手県黒沢尻町の親父の実家に44年初冬「自主避難」となった。
あれやこれやの後、労災職業病に実際に直面したのは、横須賀の田浦にある共済病院内科の「禄を食ん」でいた73年頃である。かつて知った「針」を、外来や病棟で「施術」していたところ、どこで聞きつけたのか、「横浜市従業員労働組合」の組合員数名が宿舎にやってきて、職場に「ケイワン」(頚肩腕障害)が多発している、援助してくれ、と言う。グループを作って「針」を教えた(脱法?)のが始まりである。
成田闘争も激しかった頃だ。場所はどこだったか思い出せないが、76年だったと思う。後のセンター「関係者」で初めて出会ったのが、旧日本鋼管で解雇争議を闘っていた早川寛氏(センター常務理事、神奈川県勤労者医療生活協同組合専務理事)。当時は大合理化の時代で、同じく旧日本鋼管の小野隆氏(後に当センター専従)の腰痛労災認定支援闘争が始まっていた。並行して、先行していた関西労働者安全センター(73年設立)の刺激もあり、両者が共鳴して、神奈川にもセンターをという気運が盛り上がった。詳しくは「センター15年の歩み」を読んでいただきたい。
かくして、センター結成準備の話し合いが何度かもたれた。そこには、先の早川、小野両氏の他、全石油ゼネラル石油労組の谷本敏弘、全港湾労働組合の伊藤彰信、鍼灸師の鳥谷部とし子の各氏と私などが参加した。様々な個人や組織が結集することとなり、78年1月、労働科学研究所の佐野辰雄先生によるじん肺の大切片標本をかざした記念講演を得て、センター結成となった。間をおかず、全国安全センター事務局長の古谷杉郎、当センター前事務局長西田隆重の両氏も加わってくる。さらに、全港湾の全国方針としての「港湾病」集団健診を経て、露木喜一郎神奈川県評元議長を理事長に、天明佳臣先生を所長に迎え、79年、神奈川県勤労者医療生活協同組合・港町診療所の発足となった。発足には、多くの労組、研究者、弁護士、個人の力があった。特に全港湾横浜支部庄司泰男委員長(現医療生協顧問)の力あって大であった。全港湾横浜港分会の故君島氏も忘れられない一人である。(17年6月10日記)