長野で石綿健康管理手帳取得の報告会

国労長野地方本部副委員長 鈴木英人

車両工場で検修に関わった人のアスベストによる健康被害が他の職種に比べ高いということをJR東日本の各工場が集まる学習会で指摘され、1年半前から本格的に取り組み、その結果、申請者10名全員の手帳取得となった。
思い起こせば、私が国鉄に入った1976(昭51)年にはごく普通に身の回りにアスベストがあり、その危険性を話す人はなく、逆に「熱に強い便利な布」ということで先輩から使い方を教わったものだった。しかし、その危険性を知る出来事が、今から17年前の1998年に起きた。
Fさん(当時41歳)は6月頃から組合事務所で会う度に「ゴホン、ゴホン」と咳をしていた。「風邪ひいたの、大丈夫?」と言うと、「風邪じゃないんだけど咳が出るんだよね。もうじき人間ドックだから検査してもらうよ」と言い、その後すぐに入院。悪性胸膜中皮腫と診断され、9月には帰らぬ人となってしまった。彼は最後まで「○○君にも連絡とって。彼も俺と一緒の仕事をしていたから」と、後輩を心配していた。後で聞けば、彼は入社以来ずっと※レジン制輪子の製作作業を行っていたようだ。配属当時はアスベストの入った袋が山積みにされ、機械に投入する時には大量に舞い上がる。マスクは付けていたが休憩時には外すし、タバコも吸う。休憩所は作業場の中にあり、アスベスト曝露しやすい環境ではあったと思う。そのことを契機に組合は、「アスベストは有害だ。それに関わる作業をした人には特殊健康診断を受診させよ」と会社に要請。会社も申請者全員の特殊健康診断を行うようになった。
それから8年後の2006年、団体専用列車「いろどり」の製造が始まる。これは485系を種車として内装を主に改造する工事である。車内は腰板も取り除かれ、床もキーストンプレートや根太もむき出しになりガラーンとした状態の中、ある作業者がエアーグラインダーを用意し、床板を剥いだ時の鋲を削ると車内にもうもうと粉塵が舞い上がる。「今日はやけにほこりが出るなぁ」と思いながら次に脚台取り付け座を溶接するためにプラズマ切断機で何本かの根太を切り欠いていった時に、綿ぼこりのようなものが出てきた。「そういえばこの車、アスベストが使われていたって言ったな。オイ、ちょっとライター貸してくれ」。その綿ぼこりに火をつけてみたが、赤くはなるものの燃えはしない。「これはアスベストだぞ!」。15年程前に秋田総合車輛センターで改造工事が行われた際の取り残しがあった、との会社の説明だった。「やっぱりアスベストだったか」。アスベストはない、との説明にそれを信用し作業をした人の中には、一時マスクを外して作業した人もいた。当時の管理者は鈍感であり、建屋のシャッターは開け放たれたまま、取り外された腰板はどこに置いてあるかもわからず、「そんなものは掃除機で吸い取ればいいじゃないか」という指示も出されていたが、もちろん断った。その後1ヶ月にわたる会社との攻防の末、やっとアスベストが取り除かれた。
このような過去の事例を思い出し、遅まきながら2013年10月より、わかる範囲での退職者に、アスベスト作業の従事歴や特殊健康診断のアンケートを実施した。回答では、手帳取得希望者は14名で、すでに個人で取得された方は3名いた。退職者の会の取り組みも聞きながら翌年6月7日にアスベスト学習会を計画し、取得希望者には来てもらうことにした。学習会終了後、4名から、「健康管理手帳を取得したい」との申し出があり、取得に向け動き出した。もちろん私たちだけでできるはずもなく、理論と実践を併せ持つ神奈川労災職業病センターの池田氏の強烈な指導のもと、申請の段取りを決めていった。
・まず4名が個人で、6月中旬から7月初旬にかけJR長野支社に対し、アスベストの従事歴証明を出して欲しいとお願いした。1名は旧国鉄だけの曝露だと支社から連絡があり、本人も納得し機構に証明を依頼。機構より8月19日付で事業主証明をしてもらい長野労働局に申請。10月9日に手帳が送られてきた。
・3名には9月20日頃にJRの事業主証明が送られてきたが、長野総車センターの証明は8月26日付である。なぜ1ヶ月もかかったのか、また証明は「廃車解体」のみであり、従事歴も自分が考えていた期間と合わない。このため、自分がアスベストに関わったと思われる作業とそれを一緒にやっていた人2名の同僚証明を作る事にした。
・従事歴申告書を作るため8月25、26日に神奈川より池田氏を含む3名に来ていただき、取得希望者4名を含む13名の聴き取り調査。1人約2時間かけた。手帳取得希望者は10名になった。
・正式文書を作るため10月12日に申請者3名を含む7名に来ていただき、本人が関わったアスベスト作業やそれぞれの同僚証明2名ずつ書くなど最終チェックを行った。また、初めて長野労働局に出すにあたって9種類の参考資料を用意。
・10月22日、満を持して長野労働局に申請に行くが、「書類が一部足りない」と言われ、持ち帰る事態に。その後、池田氏が長野労働局に連絡をとったようだ。当初、JRでの従事歴証明があれば機構(旧国鉄)の証明はいらないと思っていたが、長野労働局も受理するのは初めてであり、そのような対応だったのだと思う。
・すぐに機構に従事歴証明を依頼。12月5日と8日に証明が届き、12月25日に再び長野労働局に申請。翌年2月4日に1名、24日に2名に手帳が送られてきた。長野支社への申請から8ヶ月かかったことになる。
第2次申請者6名についても同じ位かかった。自分が覚えているアスベスト従事作業と期間について長野支社・旧国鉄での証明には差異がある事、証明書類が送られてくるのに時間がかかる事により、その対応に追われた1年であった。

地方本部は、今後の対応として次の事を決めた。
①アスベスト含有製品(いつまでアスベストが入っていたのかを出来る限り調査)を示し、これらの製品に関わる作業をしていた人には特殊健康診断を受診するよう促す。
②アスベスト曝露したと思われる人は健康管理手帳が必要になるので、入社時からの職歴と従事期間の仕事内容(できるだけ詳しく)、一緒に仕事をしていた人2名の名前も記入した参考資料を作っておく。退職したら健康管理手帳の申請を。
③現在の職場にもアスベストがある可能性があるので、各職場で点検を取り組み、アスベストらしきものが発見された時は地本に連絡してほしい。
④国鉄退職者やJR退職者の退職者のアスベスト被害の掘り起こしと、労災申請、「健康管理手帳」取得の相談、症状が出始めた人の相談に乗る。
⑤現職からの要望としては、退職者の健康管理手帳申請の相談は、すでに取得した人たちが主に相談に乗って欲しい。
特に③は、未だに車両にアスベストが見つかっている。昨年9月4日には、143系機器箱内にアスベストらしきものを発見し、外部業者によって除去。今年6月2日には、長野総合車両センター北基地でグループ会社の鉄道サービス会社社員が、交番検査の車両211系にアスベストらしきものが使用されていることを知らされず気吹きをしてしまった。これも業者により除去。18日には北基地で団体用電車「いろどり」の制御盤にアスベストらしきものが付着していたので、作業者が違う蓋をつけようと南基地構内17番にある485系の蓋を持ってきたら、その蓋の裏にアスベストらしきものが付着していた。作業者はわからずにそのまま※モートラに載せて運び「いろどり」に仮付けした、という事があった。
23日に徳武書記長が総務課長と話し、「211系や485系にアスベストがあった。アスベストを除去し、そのことを全社員に周知をしてほしい。211系にはアスベストが使われていないという認識を変えてほしい。また、見つけたものが本当にアスベストなのか成分分析をしてほしい」と要請をしてきた。
報告会では池田氏より、「手帳取得の成果と課題」、I氏より「退職者会の今日までの活動」で講演をいただき、S君からは2007年のお父さんの「業務災害認定の取り組み」のお話をいただいた。2時間を超える報告会だったが、参加者は最後までしーんと静まり返って聞いてくれた。お世話になった池田氏、I氏、そのほかご協力いただいた皆さん方に深く感謝したい。
最後に、健康管理手帳取得者の感想を紹介する。
●Tさん/ずっと手帳を欲しいと思っていたが、やってくれて嬉しい。JRに証明を要請したら「4年間やった」と証明してくれた。「よかった」と思いすぐに労働局に用紙を出した。すると書記長より「個人ではダメ、すぐに取り戻して」と言われた。電機職場、廃車解体、製造職場の関わった全ての職種を書いてくれ、ということだった。改めてそれを見ると、36年間よくこんな過酷なところにいたんだと自分でもびっくりした。関わってくれた方にお礼を言いたい。手帳をもらったことで満足していて、昨日慌てて東長野病院に健診の予約をいれた。

●Mさん/石綿に関しては悲惨な時代があったと思ってる。これからの人にも影響があるので手帳を取ることにした。165・169系の汚物タンク改造を思い出す。雨水で鉄が腐る。そこをグラインダーで削る。その中で作業をしていた。キハ58のアスベストを取る仕事もあった。この二つは今でも頭にくる。ある時、業者を見ると、マスク・飛散防止をやっていたが我々にはない。その差にも怒りがある。手帳取得に大事なのは、いつ、どんな作業をやっていたかで、その記録は残しておいたほうがいい。当時、「奇跡の繊維」と言われ、もてはやされていたので仕方ないとも思うが。運動として結実してよかった。