センターを支える人々:安元宗弘(事務局・横須賀中央診療所)
センターと医療生協の横須賀担当として活動35年
私は神奈川労災職業病センターの事務局員(総会議案の役員体制に記載されています)となっていますが、神奈川県勤労者医療生協の横須賀中央診療所に勤務しているので、私が専従事務局員をやっていた時のことを知っている人以外は、センター事務局員だと思っている人はたぶんほとんどいないでしょう。
さて、私は1982年4月に、神奈川労災職業病センターに入りました。といっても、その当時は雇用契約を結ぶということもなく、「センターの活動をやりたければどうぞ」みたいな感じでした。大学卒業後、印刷会社に勤めていて雇用保険をかけていたので退社後は、雇用保険も出るし、また、センターの活動をしながら職業訓練校にも行ったので、神奈川センターでは雇用保険が出ている間は無給でやっていました。
センター専従事務局員として横須賀地域の担当になったことで、84年11月に港町診療所が協力し行われた浦賀退職者会のじん肺・アスベストの自主健診を担当、そして、この健診はベースの退職者も対象に加え89年まで行われました。健診活動が進む中で、じん肺の要療養で労災に認定される方が出てきて、横浜の港町診療所まで通っていただいていました。
このような状況の中で、横須賀にじん肺患者の治療と健康管理を行える医療機関をつくろうという機運が生まれ、89年9月に横須賀中央診療所が設立されました。私は、87年4月に、神奈川県勤労者医療生協・港町診療所の職員となり、港町診療所の仕事と横須賀中央診療所の設立準備の仕事を行い、横須賀中央診療所の設立後からは、横須賀中央診療所の職員として仕事を行ってきました。日常的には、受付業務(週1回)、レセプト業務等の医療事務、金銭出納長の管理や収支報告の作成、給与計算・支払い等々の事務全般の仕事をしています。
横須賀で私が担ってきた労災職業病センター的な活動としては、労災相談やホットライン活動の他に、85年11月に結成された「横須賀じん肺被災者・アスベスト被災者の会」の事務局としての活動、住友1次・2次・3次訴訟、ベース1次・2次・3次訴訟等をはじめとしたじん肺・アスベスト訴訟の支援活動、そして、なくせじん肺全国キャラバンの活動等があります。但し、じん肺キャラバン以外は、横須賀中央診療所の患者の支援という面もあるので、医療生協としての活動とも言えるでしょう。
労災職業病センターと医療生協は車の両輪という言い方がされますが、この両方に関わっているので、まさにこのことを実感しています。医療生協の職員になってからはセンターの専従事務局員ではなくなりましたが、その後も事務局員を続けています。しかし、日常的にセンターの事務局会議に出ることができず、事務局的な動きはなかなか出来ませんが、今後も医療生協とセンターの一員としての活動を続けていきたいと思います。