国会にもアスベスト被害

衆議院で働き、悪性胸膜中皮腫で亡くなったSさん(享年74歳)が、8月31日付で、衆議院事務総長より公務災害として業務上認定された。【池田】

Sさんは1931年東京に生まれ、戦争中は秋保などに疎開したが、兄などを頼って東京に戻り、結婚。2人の娘にも恵まれ、1968年から川崎市の自宅において喫茶店を営業していた。

04年、多疾病で通院していた日本医科大学付属第2病院(現日本医科大学武蔵小杉病院)から胸の異常を指摘され、精密検査を受けた結果、「悪性胸膜中皮腫」と診断された。しかし、家族は主治医と相談し、本人には告知しない選択をした。この時、家族は、医者から「この病気はアスベストが原因」と言われたが、思い当たる節はなかった。

病名を知らないのが幸いしたのか、Sさんはしばらくはそれまで通りの生活を送っていたが、クボタショックが起こった05年頃から病状が急激に悪化。長女の浩代さんがアスベストセンターに相談メールを送ったのは、Sさんが亡くなる5日前だった。アスベストセンター所長の名取医師から緊急案件として依頼された筆者がすぐに病室を訪問したが、すでにSさんは口も聞けない状態だった。05年9月16日、永眠。原因をはっきりさせたいと、家族は解剖を承諾された。

その後、ご兄弟の話から、Sさんが一時期、衆議院で働いていたことがわかった。居住歴、家族歴、職歴などを詳しくうかがったところ、衆議院の事務局営繕課で働いていた時にアスベストばく露したに違いないと考えるに至り、アスベストセンターの協力を得ながら、衆議院の営繕における曝露の可能性を調査することとなった。

国立国会図書館等で調べると、国会議事堂は1936年に完成。地下の中央暖房システムをはじめ諸設備は当時の最新式を誇る建築物である。国会正面の階段には貴蛇紋岩が使われ、議事堂の各部屋の暖房には蒸気が使用された。この蒸気を作る汽缶室はタクマ式で、(ちなみに㈱タクマの社長は05年11月2日に悪性胸膜中皮腫で死亡している)、完成当時は石炭ボイラーだが、Sさんが働いていた頃は石綿を使っていただろうと推測した。また、図面等に加熱器周囲に「アスベスト填充」という記載があること、朝鮮や満州国の「軽量モルタル用アスベストス」が使用されていること等もわかった。

家族によると、Sさんはパイプに布をまく作業が得意で、エアコンの設置も自分でしていたという。それから推測すると、営繕課在籍中、あまり布をまかない上・下水道だけでなく、配管保温工事の作業にも携わっていた可能性が高くなった。Sさんは1949~56年に衆議院の事務局営繕課で働いている。そこでアスベストにばく露して50数年後の05年に発症するのも時期的にみて妥当と思われた。

資料を整え、09年6月24日に衆議院事務局に公務災害の申請を行った。審査は国家公務員災害補償法に従って行われるが、特別職である国会職員(衆議院・参議院・国会図書館)については、人事院判断ではなく、独自の判断となり、決定業務は衆議院事務局である。

その後、審査は遅々として進まなかったが、11年3月9日に名取所長とともに衆議院事務局に申し入れを行ったところ、衆議院事務局が、国会議事堂でアスベストが使用されていたことを認め、同年8月31日付で業務上認定となった。国会職員では初の認定である。

参考までに、他省庁の石綿関連疾患による公務災害認定件数を人事院補償課に問い合わせたところ、05~07年度では7省庁で12件、そのほとんどが死亡事案であった。職種は船員や運転手が多く、営繕で中皮腫というのは、Sさんが初めてである。中皮腫は低濃度のばく露でも発症するが、被災者が早い時期に退職して被害の実態を把握しきれないでいることが明らかとなった。また、特別職などの公務災害については、各省庁独自の判断で決定されるため、被害実態が周知されず埋もれている結果となっている。

今回の国家公務員営繕職の中皮腫発症を踏まえ、かつて各省庁で働いた大工、電気、水道、その他の建築、営繕関係の職員への石綿関連疾患の周知、石綿健康管理制度の周知を人事院が行うことを期待している。【池田】