「過労死」(脳・心臓疾患)認定基準改正

認定は難しくない、諦めないで申請を!

 昨年一二月一二日、脳・心臓疾患の認定基準が大きく改正された。まさに大改正と言えるもので、いくつかの裁判について、法廷維持ができなくなったとして、労働基準監督署自らが新認定基準に沿って業務上決定し直すという事態になった。これまでの認定基準改正ではなかった措置である。では、何がどう改正されたのか、なるべく分かりやすく解説する。

 なお、同時に公務災害の認定基準も改正されており、それも含めて認定基準全文は、「安全センター情報」二〇〇二年一・二月合併号(全国安全センター発行、連絡先〇三・三六三六・三八八二)に掲載されているので、見てほしい。

長期間の疲労蓄積を考慮

 これまでの認定基準は、長期間にわたる疲労の蓄積を認めてこなかった。発症直前に「異常な出来事」がなかったかと、発症前一週間の労働が過重であるかどうか検討することが基本で、さらに場合によって一ヶ月前まで調べるだけであった。ところが新認定基準では、これに加えて、「長期間の過重業務」がないかを六ヶ月にさかのぼって検討することになった。

 大変な仕事が続いてようやくそれが一段落して、やっと少し休めるようになった頃、病気で倒れるような労働者が実は非常に多い。あるいは恒常的に残業が続くような職場では、発症前一週間を検討しても、以前とさほど変わらない業務であるから、認定されないという「おかしな」例も少なくない。そうした事例は今後は業務上認定される可能性が高くなった。

労働時間評価の目安を明示

 どのくらいの労働時間ならば疲労が蓄積すると言えるのか。長時間労働による睡眠不足などを根拠として、一ヶ月あたり四五時間を超えて時間外労働が長くなればなるほど、発症との関連性が強まるとした。そして発症前一ヶ月間に一〇〇時間または発症前二ヶ月間ないし六ヶ月間にわたって、一ヶ月あたりおおむね八〇時間を超える場合は関連性が強いと評価する。しかも半年間ずっと八〇時間を越えるということではなく、発症前二ヶ月間、三ヶ月間、四ヶ月間、五ヶ月間、六ヶ月間、いずれかの期間を指すとのことである。

 もちろんこれを超えれば必ず認定されるということではないだろうし、これを超えなければ絶対にだめだということではなかろう。いずれにしても、この数字の明示は極めて大胆な改正である。さらに、時間外労働について、一週間に四〇時間を超えるものを指すとも明示。例えば変形労働時間制や小事業場の猶予措置がある関係で、労働基準法上は時間外労働とされない部分についても、疲労の評価においては時間外労働としてカウントするという、当然のことも明らかになった。

過労しやすい業務を定めた

 厚生労働省は一貫して、脳・心臓疾患になりやすい業務は存在しないという立場を採ってきた。したがって、従来の認定基準では、過重性の評価において、労働時間、労働密度、作業形態、業務の難易度、責任の軽重、暑熱、寒冷など抽象的な調査項目が挙げられていただけだった。

 今回の改正では、「業務の過重性を評価するための具体的負荷要因」として、労働時間、不規則な勤務、拘束時間の長い勤務、出張の多い業務、交替制・深夜勤務、作業環境(温度環境・騒音・時差)、精神的緊張を伴う業務の負荷の程度を評価するように示している。
「大変なお仕事ですねえ」と感じる世間の常識にようやく近づいたと言えよう。もちろん認定基準改正の科学的根拠となった専門検討会の報告書では、八〇年代半ばから九〇年代の諸研究が多数示されている。

過労死職場をなくそう!

 以上のように、新認定基準によって、脳・心臓疾患の業務上認定のハードルがぐっと下がったことは間違いない。もちろん示された時間外労働時間数の数字のみを一人歩きさせて、それ以下なら認定されないという運用は回避する必要がある。とにかく本人、家族、同僚いずれでも「労災だ」と考えた場合は、臆することなく申請に踏み切るべきである。

 一方で、もう一度数字に注目してほしい。皆さんの職場で、倒れたら業務上認定されてしまう長時間労働に従事している労働者はいないだろうか。全くの偶然だと思われるが、労働省が告示で示す三六協定(時間外労働の上限を定めた労使協定)の目安は一ヶ月四五時間である。認定されるからめでたいのでは決してない。過労死を根絶する予防対策こそが、いま最も必要な運動である。

労働基準監督署へ請求中の事例から

 脳・心臓疾患の労災相談がここ数年来増えている。負傷以上に、原因をきちんと立証することは難しい。どんな仕事でも、大なり小なり大変なものだから、という言い訳も会社側からよく聞かれる。けれども寄せられる相談の仕事の内容をよく聞いてみると、仕事が病気の原因だと、本人や家族、遺族が確信するだけの理由が必ずある。センターが関与している事例からいくつかを紹介しよう。

Tさんの場合
 二〇〇一年八月、東京都大田区にある会社に勤めていたTさん(当時五一歳)は、通勤途上に倒れているのを発見された。「虚血性心不全」でまもなく亡くなられた。
 Tさんは近所の十条通り医院に糖尿病で定期的に通院していたが、とくに健康状態が悪いわけではなかった。ただ、二年前に長年勤めてきた会社がリストラで退職を余儀なくされ、実家の近くにある友人が経営する会社で働くようになった。同じ「営業」職ではあったが、大企業と小企業ではやり方などにも大きな違いがあったようだ。通勤が一時間半ぐらいかかるとはいえ、帰宅は夜の九時半〜一〇時半頃になっていた。さらに遅い日は、実家に泊まるようにしており、週の半分ぐらい、少なくとも月に一〇日は自宅に帰らなかった。
 会社は、そんなに仕事は大変ではなかったとして、労災の事業主証明も断られた。一月二三日、大田労働基準監督署に遺族補償の請求を行なった。

Aさんの場合
 Aさんは、テント工事の会社に勤めていた。現場もまちまちであったが、二〇〇〇年九月六日、愛媛県の出張先現場で、朝の段取り後、各自作業に入った直後に倒れ、救急車で運ばれたが死亡した。心筋梗塞による三九歳の若すぎる死である。
 ふだんは早朝から家を出て、夕方六時ごろには戻る仕事であった。会社に資料を要求して改めてよくわかったのであるが、とにかく休みが少なく不定期である。たまたま出張先が大手企業の工場内であったため、発症三日前の日曜日は休みだった。しかし通常は日曜日でも休めるとは限らない。八月の休みは、お盆休み四日間と二七日(出勤簿に現場名と休みの欄の両方に名前があり、事実確認中。休んでいなかった可能性もある)だけ。他の月もほぼ同様で、会社は、とりあえず月に四回程度休みがあればいいと考えているようだ。ゴールデンウィークのある五月も月初めの三連休以外は二日しか休みをとっていない。しかもそうした連休前には二週間以上休みなく勤務が続く。
 必然的に月の時間外労働は、一日の実労働時間を少なく見積もっても(一〇時間)、八〇時間を越える。実際は現場への運転業務もしていたので、一〇〇時間を越えるであろう。
 現在、愛媛労働基準監督署で調査中であるが、上記のことを記した意見書を提出し、新しい認定基準に基づく判断を待っているところである。

Kさんの場合
 Kさんは、外資系の会社で貿易商品の検査業務に従事していた。本来は政府の税関でやるはずのことを発展途上国などでそこまで実務的にやりきれないような場合に、第三者機関の会社が委託して検査する。しかし、近年の不況や業務編成の変更などがあり、一九九七年以来度重なるリストラで、正社員が一三九人から二〇人を切るまでに激減。当然慣れない業務への配置転換、経験者の退職なども相次いだ。

 Kさんも長年現場の検査業務に従事してきたが、内勤のコーディネーターという、いわば調整係にならざるをえなくなった。前任者からの引継ぎもままならないまま、新しい仕事を始めて想像を絶する仕事量、心労の中、三ヶ月弱経過した二〇〇〇年七月二四日、会社で勤務時間中にクモ膜下出血で倒れた。意識不明のまま、八月二〇日に亡くなられた。
 職場には労働組合があり、Kさんも役員を務めるなどしたが、状況が状況であっただけに、サービス残業をせざるを得なかったようである。ただし、「サービス」ゆえに明確な記録はない。しかし、Kさんの前任者は残っている仕事の記録を見て、これは定時間内でとてもできる量ではないと断言している。労働組合などからも意見書を提出し、現在横浜北労働基準監督署の決定を待っている段階である。
  
労働局審査官へ審査請求中の事例から

Nさんの場合
 Nさんはプリント基板を製造する工場で「主任」として働いてきた。二〇〇〇年三月二八日にクモ膜下出血で倒れ、現在も治療中である。恒常的に毎日三時間程度の残業をしてきたが、発症当日も機械が故障したため、午後九時ごろまでそれを修理しようとしていた。
 二〇〇一年三月、労働基準監督署は業務外の不当な決定をした。日常的な残業も「自己裁量的なもの」とし、発症当日の機械修理も「異常な出来事」に当らないと決め付けている。Nさんの同僚らにお話を伺うことができた。部下にあたる方は、Nさんは非常にまじめな性格で、納期を守ること、仕事を正確にすることについては本当に厳しく指導された、私はそれは今も続けていますと語る。もう一人の方も、同様に話され、当日の修理にしても、最終的には業者を頼むことになったが、そうすれば時間もお金もかかるので、なんとか自分で直せないかと努力していた、Nさんはそういう人だと語る。
 同僚からのお話も含めて、審査官には意見書を提出し、聴き取りも終了した。逆転業務上認定をぜひ勝ち取りたい。

審査会に再審査請求中の事例から

Hさんの場合
 一九九八年五月三日、金港交通でタクシー運転手として働いていたHさんは、勤務中に脳梗塞で倒れ、現在も治療中である。横浜北労働基準監督署、神奈川労働局労災保険審査官は不当にも業務外の決定をしたため、再審査請求中である。
 二〇〇二年一月二三日、横浜北労働基準監督署に対して、業務上外決定をやり直すよう申し入れをした。つまり新しい認定基準に従えば、Hさんが業務上であることは明らかなので、審査会の決定を待つまでもなく、決定をやり直せというもの。無理難題を言っているのではない。すでに新聞で報道されているように、裁判で係争中のものは判決を待つまでもなく、自ら労働基準監督署が新認定基準に基づいて業務上決定しているものが相次いでいるのだ。
 審査会の公開審理の前に送られてきた資料によって、労働基準監督署の調査内容をようやく知ることが出来た。そこでは、Hさんは所定拘束時間の五割増で働いていたこと、同僚の平均と比べて、拘束時間も走行距離も売上げも二割増であると認定している。時間外労働時間数は月一〇〇時間を越え、それだけでも大変な労働実態である。さらに、よく資料を検討すると、実はお客さんを乗せている時間を仮眠時間と推定している部分が何ヶ所も見つかり、労働基準監督署が認定した実労働時間はあまりにも過少であることも判明した。
 現在訴訟準備も着々と進行しているが、裁判をするまでもなく、業務上認定を勝ち取りたい。何よりも心強いのは少数とは言え、全国一般金港交通労働組合が存在することである。厚生労働省にタクシー労働の実態をつきつけ、健康に働ける労働条件を勝ち取る闘いを前進させよう。その思いは、さる一月三〇日に行なわれた、審査会の公開審理の場に結集した。
 当日は、Hさん本人とお連れ合い、組合の仲間、訴訟の準備を進めている弁護団の影山さん、大塚さん、小宮さんも出席。代理人席六席はもちろんのこと、二〇しかない傍聴席も満席に。Hさんは、勤務内容に関する会社の資料を貼ったり自分で克明に記録していたノートを提出し解説。じつはすでに労働基準監督署段階でも提出していたのであるが、既述のとおり、担当者はおそらく全く活用していない。代理人は、新認定基準に従えば、当然業務上認定されること、労働基準監督署の調査がずさんであることなどを発言した。審査長からもいくつか質問があり、審理は延々三時間近く行なわれた。
 認定基準改正の契機となった最高裁判決の代理人でもあった影山さんは、終了後次のように語った。「元々審査会ではまず勝てなかった。それで訴訟で勝利してきた。けれども今回の認定基準改正によって、審査会でも勝てる情勢がある。そのためには『運動』の力も必要だと思う」。なんとしても業務上認定を早期に勝ち取るために奮闘しよう。

Oさんの場合
 一九九八年七月二一日、Oさんは体調がすぐれないため早退して、近所の医院にかかった。その日の夕食後倒れて救急車で運ばれる。「くも膜下出血」の診断で、一時は寝たきり状態になりかけたが、家族の懸命の努力の甲斐もあり、現在も闘病中である。
 Oさんは厚木にある小さなプラスチック成型工場で「工場長」であった。しかし、完全な親族経営で、「残業代が出ない」、「社長に直接批判される」だけと言っても過言ではない。毎日九時過ぎまでの残業を強いられていた。ところが労働基準監督署の調査に対して会社の専務は、夜勤者への引継ぎなどで立場上残る回数は多かったと聴き取りで述べ、労働基準監督署や審査官もそれらに基づいて、労働密度は低かったと決め付けている。改めて他の同僚などの聴き取り書を丁寧に読むと、ほとんど定時間の延長であることは明らかである。
 労働時間のカウントの仕方も新認定基準に照らすと間違っている。つまり単純に一日八時間を越えるものだけを時間外としているが、新しい認定基準では一週間に四〇時間を越えるものは時間外とする。つまりOさんの場合は、土曜日は全て時間外労働としてカウントすることになる。すると月あたり一〇〇時間をゆうに越えるのだ。
二〇〇二年一月一六日に行なわれた公開審理では、上記の主張を行ない、併せて労働基準監督署が審査会の決定を待たずに自ら処分を見直すように要望した。

ついに裁判で勝利した事例

Sさんの場合
 昨年の暮れも押し詰まった頃「今度こそ判決が確定し、息子の労災が下りるかもしれない!」と、Sさんの母親であるKさんから電話があった。控訴審でも原処分取り消しの判決が出されたからである。
 Kさんの息子は、一九八九年四月二八日、会社からの帰宅後、突然意識不明の状態となった。奇跡的に命をとりとめたものの、このときのWPW症候群に伴う一時的な心停止による無酸素脳症が原因で意識の回復を見ないまま、寝たきりの状態が一一年後の今も続いている。発症前のS隆さんの業務が早朝に八〇キロにもなる新聞、雑誌を配送する朝刊業務など六日間連続の夜勤業務がつづいていたこともあり、当時は会社も協力して労災申請。ところが、平塚労基署は、三年間も決定を遅らせた末、一九九二年六月に業務外の決定。これを不服として審査請求したが、一九九四年三月に棄却。そこでさらに労災保険審査会に再審査請求したが、これも棄却され、一九九七年六月に原処分の取り消しを求める裁判を提訴した。そして、昨年七月ついに待ちに待った原処分取り消しの第一審判決が出たのである。この判決は、Kさんにとって、植物状態同然とされた息子の介護をしながら「労災でないはずがない」と訴え続けて一一年目にして初めて手にした勝利だった。
 ここで、被告である平塚労基署、労働省側が控訴さえしなければ、判決が確定し、一一年間にわたるKさんの労災認定の闘いに終止符が打たれるはずであった。母親といってもKさんは、すでに七六歳、これからいつまで息子の介護が続けられるかどうかもわからない。判決が一日も早く確定するよう平塚労基署に手紙を書いた。だが、非情にも労基署は本省と検討した上で控訴した。いったい何のための控訴なのか。負けた判決を確定させたくないという労働省側の面子を保つだけの控訴としか思えない。実に腹立たしい思いもしたのである。そして、半年が経って、ついに東京高裁でも、本件控訴を棄却する、控訴費用は控訴人の負担とする、との判決が下りた。影山弁護士によると、控訴審はSさんのWPW症候群は「元々ハイリスク群であって業務との因果関係はない」との厚生労働省側専門医の意見書が出されたが、高裁はこれを「具体的根拠が明らかにされてない」と退けたということだ。
 控訴審でも勝利したものの、Kさんにとっては「上告されるのでは?」という不安もあったのか、冒頭に紹介した昨年暮れの電話も幾分か慎重なものであった。しかし、年明けてからまもなくもう一度Kさんから電話が入る。厚生労働省側が上告せず控訴審の判決が確定したという知らせだった。労災制度は、本来労働者保護の見地で被災者の救済がはかられるべき制度だ。ところが、現実には誰が考えても労災と思えるようなケースでも認定基準という振るいにかけられて労災と認められない事例が多い。Sさんの場合のように、判決さえ無視されて補償が延々と引き延ばされている事例が少なくないのだ。人の命にかかわる補償の問題が認定基準という行政上の運営基準にすぎない一片の通達によって振るい分けられているのだ。過労自殺という深刻な事例を含めて過労で倒れた人達やその家族の労災申請が依然として増え続けているのに、それに見合った補償がされてないのは大きな問題だと思う。