センターを支える人々:西田隆重(「遊働する身体」編集・発行人)

遊ぶように働き、こころとからだを取り戻す。
雑誌「遊働する身体」を生きた言葉の現場に!と。

西田隆重(「遊働する身体」編集・発行人)

遊ぶように働くことができればと

 現在、「遊働する身体」という雑誌を編集・発刊している。「遊ぶように働く」そんな現役時代に夢として掲げていたことを退職後フリーになってから実現したいという思いからであった。退職してなお余力があったのは長年前職の労災職業病の被災者の相談活動に取り組んできて、自身も労災職業病に負けないこころ・からだを鍛えてきたからと言えるかもしれない。
 雑誌「遊働する身体」は、ヒーリングブームの時代にこころ・からだの思想・文化をネットワークし、「遊働する身体」への新たな道を切り開くことをめざしている。前職で労災職業病の被災者が職場復帰していく時に被災者自身がこころ・からだをいかにしてとり戻していくかという課題を継続して追及していきたいという思いもあったからだ。

取材はいつもハラハラ、ドキドキ、ワクワク

 雑誌と言ってもしがない個人誌で、取材も編集もデザインもそして校閲さえもたった一人でこなさなければならない。販売にいたっては出版業界の販売ルートに乗せてもらえないためにまさに孤軍奮闘、四方八方手を尽くして元手を回収しなければならない。しかし、雑誌の取材と編集は毎回どこに行って誰と出会い、そしてどんな記事ができあがるのか、いつもハラハラ、ドキドキ、ワクワクして心を弾ませている。とりわけ海外に観光も兼ねて取材に行ったときは・・・。

 あるときにはドイツの中世のお城の石畳の上を歩いてウォーと叫び、また、あるときはイタリアのルネッサンスの絵画をま近かに見てホォーと感心する。そんなときは記事を書きたいという意欲が一気に高まってくるのである。それまで本で読んだり、ネットで検索したりして知っていることでも、そこの近くまで自分の足で歩いて行って、自分の目でまじまじと見てみる。それは「現場感覚」としか言いようのないものであるが、それが雑誌づくりの原動力ともなっているようである。

編集は、人と人とのつながりの面白さ

 編集は、特集の企画が当たれば面白いものだ。雑誌の紙面上のことだけかもしれないが、そのテーマの下に人と人をつないでいけるからだ。本誌は、まだ4号までで気功とオイリュトミーの特集しか組めてないが、それでも取材や編集を通してそれぞれの分野の人と人との間やグループ間のつながりは確実に深まり、広まったのでないかと自負している。そして、そのつながりが重なり合い、さらに新たな分野のこころとからだのネットワークが広がっていけば何かそこから新しいものが生まれてくるのではないかとその気運高まればときにゾクゾク、そうでないときにもそうならないかとソワソワもしているのである。これは、あくまでも小さな雑誌の編集者としての現場感覚から来ていることだが・・・。

深刻化する活字離れの時代の中で

 しかし、「そんなのあんたが勝手に描いている幻想だよ!」と軽く一蹴されるかもしれない。なぜなら、出版業界はいまやネットやスマホの普及の影響で書籍離れが深刻化し、売り上げは長期低落傾向にある。特に雑誌は各誌とも発行部数が激減しているばかりか、軒並み休刊・廃刊が相次いでいる。そんな時代に生き残れるのか?と。何とも耳の痛い話である。

 本誌がなんとか生き残れているのは、一人体制でほぼ印刷原価のみで経費を賄っているからだ。それでも雑誌については、大幅にコストダウンを図るために第3号から専門のイラストレータに依頼することも止めてしまった。驚いてしまったのは、周辺の関係者や関係団体には飛ぶように売れている1冊500円の自前のブックレットを県内の大手書店に取り扱ってくれるよう持っていったところ悉く断られてしまったことだ。ある書店では店員がOKしたのに、店長がわざわざ棚卸しの中継ぎ店に電話で問い合わせて断ってくる始末。地場の地域文化を育ててきた某大手書店が一週間もかけて検討した結果、NO!との返事には本当にまいってしまった。

雑誌の未来を考える

 かくも活字離れが進んでいる時代に雑誌の未来を考えると実に暗澹たるものがある。しかし、しかし、である。活字文化は廃れつつあるとは言え、そこに込められた思想や文化は生き続けているのではないか。それをネットのヴァーチャルな感覚だけですくい上げられるものだろうか。つい最近、かつて「試行」という個人誌を出していた吉本隆明氏の「初期ノート増補版」を読み返していて、その宮沢賢治論に賢治の詩の音数律を自筆数字で書き並べてあるのを見て、アッ!もしかしたらここにまだ解かれていない日本語のリズムの秘密が隠されているのでは?と新鮮な驚きをもった。これはやはり活字がいっぱい詰まった紙版書籍から輝き放たれてくる思想の力なのではないであろうか。そこには、膨大な書籍群をネット検索して浅読みしていくウェブ空間からはどうしても漏れてしまうヒラメキの時が刻まれているような気がするのである。私たちは、本を手に取って買う以前に、書店の棚に立ち並ぶ濃密な空間で立ち読みするときの書籍との幸福な出会いを忘れつつあるのではないであろうか。翻って、わが「遊働する身体」を見てみると、そのようなネットのヴァーチャルな画像とは一味も二味も違う質感をどれだけ出せているかと思う。手が紙面に触れたときの触感、図と文字、そしてトリミングした写真とのバランスのとれたレイアウト。目にやさしい色彩の配合と調和、見出しと本文の間合い、行と行の間など身体感覚に訴える活字紙面の進化がまだまだ追及される余地はあると思う。

「遊働する身体」を生きた言葉が交錯する現場に

 これまでのような活字文化の復権ということではなく、こころとからだをとりもどすということにおいて、活字はどう生かすことができるか? そのような問いかけはこれからもしていかなければならないと思う。それは、DVDやCDに頼らずに、私たちがこころとからだという生の現場で絶えず生き生きとした瑞々しい言葉を生み出していくことではないかと思う。これからも「遊働する身体」をそのような生きた言葉が交錯する現場にしていくことができていければと思っている。