センターを支える人々:坂巻フミエさん(元センター職員)

 こんにちは、坂巻フミエと申します。私は1970年、22歳の時に東京・品川区にあった外資系通信販売会社「㈱日本メール・オーダー」に入社し、ダイレクトメール(DM)カードの宛名書き筆耕を担当しました。DMの宛名書きというのは、ノートの表紙くらいの厚さのカードに特殊なカーボン紙を敷いて、氏名、住所など40~50字を筆耕します。長期的にカードを使用するため、印刷に耐え得るよう、ボールペンで平均的に力を入れ、強く書かなければなりません。後に労基署の作業調査で、「筆圧が500g、カーボン紙7~8枚の伝票を書くのと同じ」と担当者の方も驚かれていました。

 筆耕には2分で1枚、1日200枚以上のノルマがあり、達成できなければ一時金、昇給が査定されます。また、背面から上司が監視し(人間の動作は背面からが最も把握しやすいとか…)、疲れて上体を伸ばせば1分間〇円の損、トイレに立てば何分〇円の損とカウントして賃金評価に反映、トイレの回数、私語など常に注意され、1日中下を向いたままの姿勢で緊張の連続でした。

■頚肩腕障害を発症

 社員300人のうち8割が女性で、頚肩腕障害が蔓延していましたが、会社は退職強要と新人募集の繰り返しで、一貫した使い捨て姿勢でした。私も次第に指の痛み、後頭部、首の付け根、肩、背中のこわばりや鉛の塊を乗せられたような重だるさが激しくなり、休み時間は机にうつぶせになっていました。3年目位からボールペンを握れず筆耕枚数が減り、指に輪ゴムを巻き痛みを麻痺させて書いていました。受話器が握れなくなり、酒瓶の蓋が開けられなくなったのには参りました。風呂で髪を洗ったり背中をこするのも腕が痛くてできず、あまり入浴しないといった体で、1974年、東京・中野の診療所で「頚肩腕症候群」と診断され、鍼・灸・マッサージ・超音波治療を開始。11月に品川労基署より業務上認定され、1975年1月にはついに起き上がれずに休職に入りました。

■私たちの職業病の闘い

 病気になって初めて、身の置き場のない痛み、昨日も、今日も、明日も続くのかとその辛さを知りました。会社に謝ってほしい、元の身体を返してほしいと訴えましたが、会社は、家事のせいだ、編物のせいだ、会社に「頚腕」などというものは存在しないと労災認定をも否認し、私傷病の「無期休職処分」という解雇同然の仕打ちに恨み骨髄でした。会社は私の前に、労災申請中の1名を私病休職期間満了で解雇、労災認定後も解雇を撤回せず、同様の3名に無期休職処分を発していました。若き女性たち5人は健康を奪われ、職場を奪われ、生活を奪われてズタズタにされたまま放り出されてなるものか、絶対会社に一矢報いると心に刻みました。

 私は休職当初、歯磨き、ボタンをはめる、ズボンをはくなど身づくろいも困難で布団を上げられず万年床、通院回数も減り、ひたすら眠る毎日でした。4ヶ月ほど過ぎると診療所から「生活記録の記入」「外出訓練」「自宅でできる自主的リハビリ訓練」を勧められました。起床・就寝時間、食事内容、一日何をやったか、症状の変化、気づいたことは何でも記入するように言われ、一定時間座ってものを書く、本を読む、広げた新聞紙を端から丸めて何分かかったか時間を記入する。何もできない日も、よくできた日も、一人でコツコツ訓練し、記入しました。一人で継続することはとても辛く、一進一退を繰り返し、落ち込む日も度々でしたが、医師、看護師、鍼灸師、ケースワーカーなど医療機関全体の理解、支援、アドバイスがあり、「症状が後退したら小休止してあせらず、止めずに続けて」「今日はこんなにいいね」と励まし続けてくれたことは、その後の症状回復、職場復帰への大きな力となりました。

■軽減勤務と職場復帰を要求

 当時、被災者の症状回復、職場復帰を促進する効果的対策として、治療と併せて家庭での訓練を行い、就労場所での勤務などを症状に応じて短時間から徐々に延長していく方法が効果的であると実際の事例検証から立証され、労働省も「593通達」として推進していました。実際に私も自宅で自主訓練を続けるうち痛み・しびれなど症状はあっても、外に出る、財布からお金を出して切符を買う、山の手線に乗って徐々に距離を延ばすことができるようになりました。「会社まで行ってみる?」とケースワーカーに言われ、初めは会社が見えると気分が悪くなりましたが、通勤訓練を続けて会社まで行く自信がつきました。

 1975年末、2時間の軽減勤務願いを会社に提出。ケースワーカーは、軽減勤務の重要性を説いた意見書を会社・労基署に提出し、労務担当や監督官にも会って説明してくれましたが、会社は、半病人はいらないと休職命令を出しました。そこで翌1976年から被災者4人で週5日会社に行き、通勤訓練、軽減勤務を要求し続けました。当初、会社は実力で社外に排除してきましたが、社員たちに「会社のやり方はひどい」と理解が広がり、職場への立ち入りを受け入れてくれるようになると、従業員から離れた一室の2時間使用を認めました。

 品川労基署は再三にわたり「593号通達」に基づく行政指導を行い、産業医も「軽減勤務、経過観察を要す」の診断書を出したものの会社はすべて拒否、会社への立ち入りを禁止し、以後12年にわたる職場復帰要求闘争となりました。

■職場復帰と退職

 会社への立ち入りを拒否されると、地区労や倒産争議で自主生産を続けていた地元労組が、自主訓練できる場所や事務作業を提供してくれました。他で勉強できないことを教えられ、かけがえのない人生のひとこまでした。5時間、6時間と延長して働ける体力もついて治療間隔も開けることができ、これで職場復帰さえできれば症状はさらに良くなると自主就労訓練に励んでいた矢先の1983年3月31日、長期療養者の鍼灸治療・休業補償を打ち切る「375号通達」により治療・休業補償を打ち切られました。この被災者切り捨てには全国で大反対運動が巻き起こり、労働組合・全国各地の安全センター、医療者・研究者が抗議の火の手を上げ、労働省を取り囲む運動が展開されました。その中で鍼灸治療の有効性についての知見が発表され、その冊子に、労働者住民医療機関連絡会議(労住医連)と厳めしい名があり、医者たちの組織の結成を知りました。

 治療費も生活費もひっ迫する中、1987年1月、会社はフルタイム勤務なら復職に応ずると和解案を提示。私は3名の仲間と培ってきた自主訓練による全日勤務への自信をもって1日勤務を受け入れ、12年ぶりに職場復帰を果たしました。頚腕の再発には注意し、周りの同僚の理解もあって順調に勤務していましたが、母の病気により介護・休職を余儀なくされました。会社には毎日の介護日誌を送って休職期間の延長を申し出ましたが半年ほどが限界で、退職しました。

■労働者住民医療機関連絡会議(労住医連)へ

 母を送った後の90年5月、港町診療所の早川寛さん、全国安全センターの古谷杉郎さんから横浜のさる暗い喫茶店で「安全センターと労住医連の共同事務所を東京に構える。事務局に入らないか」とお誘いを受けました。至らぬ介護への後悔と喪失感に陥っていた私に声をかけていただき、18年間もお世話になったことは感謝してもし切れません。

 労住医連とは、国の労災職業病被災者の鍼・灸治療打ち切り攻撃を契機に「労働者・住民のための労災職業病医療・地域医療制度をめざそう」と、北海道から沖縄まで、被災者、住民、労働者、医療機関、医師、看護師など医療関係者、安全センター、労働安全研究者、福祉関係者、学生が会員となり活動しています。

 最近の主な活動は、社会保障プロジェクト、介護保障プロジェクト、じん肺・アスベストプロジェクト、振動病プロジェクト、産業保健プロジェクト、ノーモア・フクシマ・プロジェクトなど。また、過労死・いじめ・メンタルヘルス、外国人医療、路上生活者支援の医療・生活サポートにも各地の活動と協力しています。命を守る根本の平和を守る運動も各地での団体と協力しています。

■神奈川労災職業病センターとの関わり

 私は職場や受診医療機関が東京だったので職業病被災者との共闘や交流は東京の患者会が中心でしたが、被災者の増大や治療打ち切り問題もあり広く全国的に運動を展開しようと、労災職業病被災者対策全国連絡会議が結成されました。労働省交渉や、天明先生(神奈川センター所長)、斎藤先生(神奈川センター理事長)、平野先生など多くの医師を講師に連続学習会を開いたり、街宣行動に取り組むようになると、神奈川センターとの行動も頻繁になりました。労住医連事務局に入ると、さらに緊密なお付き合いとなったのです。

 2008年に労住医連を60歳で退職する時、神奈川センターから短時間勤務で会計を担当してもらえないかという、これまたありがたいお声をかけていただきました。だんだん認知が怪しくなっていた私にとって労災職業病に関わる仕事を続けられることはとても励みになりました。

■センターを辞めてから

 65歳で神奈川センターを退職し、住宅型有料老人ホームに少し勤めました。人員配置基準が最も低いところで、入居者がコールボタンを押してもスタッフが駆け付けられない、歩ける方でも転倒防止ということでトイレに行かせないといった状況でした。時間を制約した配膳・食事介助・下膳などで腕・腰の痛みが出て退職。その後、地域の小規模デイサービスで週2回、半日勤務しました。ここでは、自宅で過ごしているようなゆったりした時間が流れ、どのような障害があっても一人ひとりの利用者さんに寄り添った素晴らしい介護を学ぶことができました。こうした事業所が、介護保険制度改定による介護報酬引き下げで立ち行かなくなったことは非常に残念でした。

 このような時、十条通医院の斎藤先生から、医療事務の欠員がでたので手伝ってもらえないかとまたしても有難いお声掛けがあったのです。67歳の自分にできるのか、パソコンが使えるならできるって? やってみるかと安直に考えて3年。一歩あるけば教えられたことを忘れ、患者さんやスタッフの皆さんに非常にご迷惑をおかけしましたがいつも厭わず丁寧に教えていただき、4度目の貴重な勉強の機会に恵まれて古希まで働くことができ感謝にたえません。

■今も職業病に苦しむ被災者の方々へ

 軽減勤務は実現できなかったけれどフルタイムで復帰が出来たのは、理解ある医療機関やスタッフ、自分に合った治療にめぐりあえたこと、自主リハビリ訓練を継続し、職場や社員から離れなかったこと、被災者と話すことで社員が会社から攻撃を受けないようひそかに会話を交わし、自主リハビリをしている理由、軽減勤務の大切さを理解してもらえたことと思います。社内の理解は社会復帰した前も後も重要だと思います。

 私が一人ではなかったことも大きいと思います。一人で闘っている方の大変さは想像を絶します。でも、病気を隠し会社に言えずに働かざるを得ない社員でも身体のきつさは分かっています。一人で闘っている姿を必ず理解している、職場に「労災職業病」「労災認定」という言葉を根付かせていると思います。

 職場復帰が最良とは思いません。体力に自信なく職場復帰するとなかなか回復できないことがあります。一人ひとりの症状、職場の状況、生活を取り巻く環境、様々な要素の中でその方が最良と思う道を自身で選ぶことができるようサポートが大切と思います。

 残念ながら、これ以上労災職業病被災者をださないでという願いは実現できていません。40年前とは作業態様も疾病も変化しており、私の経験が参考になるかどうか心もとないのですが、お役に立てれば幸いです。