18歳で悪性胸膜中皮腫を発症して:田中奏実さん(中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会「北海道支部」)
目次
自己紹介
今日はこのような皆さんとお会いできる機会をいただきまして本当にありがたく思っております。北海道支部から参りました田中奏実と申します。タイトル通り、私は18歳で悪性胸膜中皮腫を発症しました。今日は、自己紹介と北海道支部の活動を紹介したいと思います。よろしくお願い致します。
最初に、「悪性胸膜中皮腫を発症して」ということでお話をしたいと思います。私が18歳で胸膜中皮腫を発症したと言うと、よく聞かれる質問が2つあります。まず、「どこでアスベストを吸ったのか」です。これははっきりした原因はまだわかっていません。ただ、つい最近、小さい頃よく行っていたデパートの駐車場で吹付アスベストが使われていたことを知りまして、身近に全くアスベストが無い環境ではなかったのだということを知りました。
もう一つは「なぜ18歳で発症したのか」です。これもはっきりしたことはわかっていませんが、14歳頃に結構ストレスがかかった事があり、それが原因で発症が早まったのではないかなと自分では勝手に思っております。
北海道から静岡へ
中皮腫と分かった経緯ですが、最初、学校の健康診断で左肺に軽い異常が見つかり、それが気胸という病気だとわかりました。あまり良い状態ではなく、肺がかなりしぼんでいたこともあり手術が決定しました。その手術で、先生から、「良くない細胞が見つかった」「アスベスト作業に従事していた方と似たような細胞が見つかった」と言われました。札幌の病院でしたが、「北海道では治せる病院がないから静岡の病院に行って治療してほしい」と言われました。これは北海道に良い病院が無いというわけでは決してなくて、私の年齢が若いこともあったので、手術ということを視野に入れたら専門の先生のいる病院に行ったほうがいいという主治医の判断だったと思います。
私も当時18歳だったので自分の判断というよりは両親の判断で、静岡のがんセンターに行くことが決定しました。そこで悪性胸膜中皮腫と診断を受けました。その時、先生から「放っておいたら余命2年だったよ」と言われました。でも、当時もこんな感じでぴんぴん元気で、しかも学校にも通ってましたので、全然その余命というのは全くピンときませんでした。
18歳当時の私
当時、昼間は短大で栄養士の勉強をして、夜間は専門学校で調理師免許を取る勉強をしていました。帰ったら夜10時とか11時とかで学生にしては多忙な生活を送っていました。そんな生活を何とか半年間乗りこえ、卒業まで残り1年半の時、この病気がわかりました。先生から、余命2年と言われた時、私はすぐ引き算をして余命2年ということは1年半引いたら半年余るなと思ったんです。普通に考えたらバカな話ですが、その時は頭が真っ白で先生が何を言っているのかわからなくて、自分では余命を引き算して考えてしまいました。
診察室でそんなことを思っていたので、「治療は、学校を卒業してからでもいいんじゃない?」と言ったところ、父親から、「自分の命と学校とどっちが大事なんだ」と言われ、悠長にあと2年は生きられると思っていた私はすごく衝撃を受けました。命とか寿命とかいうことより、学校に行けないということが何よりもショックでした。なぜこんなに学校に行きたかったかというと、先ほど14歳頃すごくストレスがあったと言いましたが、そのストレスの原因が学校にありまして、学校に行っても話す人もいなかったり陰口や悪口を結構言われて学校に行くのがすごく嫌だったんです。でも短大に入って初めて友だちもいっぱいできて自分の好きな勉強もできて、「学校、楽しいんだな」と思った時に中皮腫とわかって、しかも北海道を離れて治療しなければいけないとわかって、それが一番ショックでした。半年間過ごしたアパートを解約して母親と2人で北海道から静岡県へ引っ越しをしました。
静岡のがんセンターは奥の方に噴水があり、バラ園には季節になったらバラが咲き、体調の良い時はよく散歩して、私はあまり病室にいない患者でした。天気が良い日は窓から富士山も見えました。治療方法は抗がん剤を3クールと、左肺と左胸膜の全摘手術をして放射線治療を30回、これらを6ヶ月間で終わらせて北海道に帰ってきました。現在は、検査結果も良好で、3ヶ月に1回通院しています。体も心も元気に生活しています。
中皮腫サポートキャラバン隊「明るく元気に行こうぜ」
次に、18年8月に行った「中皮腫・アスベスト疾患サポート北海道キャラバン隊」を含め北海道支部の活動を紹介します。北海道支部では年4回、札幌でアスベスト被害相談会と同日に患者と家族の集いを開催しています。また、年4回、会報誌「ななかまど」を発送し、戸別訪問も行っています。
18年8月には「北海道中皮腫サポートキャラバン隊」を行いました。皆さんもご存じだと思いますが、もともと17年7月に「中皮腫サポートキャランバン隊」が2人の中皮腫患者さん、右田さんと栗田さんによって結成されました。中皮腫サポートキャランバン隊の目的は、希望を持つことができない患者さんやご家族に対して、わずかながらでも希望と勇気を持ってもらいたいと思い、中皮腫患者自身が中皮腫患者のもとを訪れ、自らの経験と思いを分かち合い、中皮腫と診断されても「明るく元気に行こうぜ」というメッセージを伝えることです。主な活動は、全国の中皮腫患者さんに会いに行き、講演会や交流サロン、戸別訪問といったピアサポート活動を行っています。私も何ヶ所か講演会に参加させていただきました。
中皮腫・アスベスト疾患サポート北海道キャラバン隊
実は、17年9月に中皮腫サポートキャラバン隊が札幌で交流会を開催して下さった時、患者と家族の会員ではない方が新聞を見てお越しになりました。そのことから、北海道はすごく広いので札幌に来られない患者さんやご家族さんがまだまだいるんじゃないかなと思い、札幌以外で集まる場所を提供したいなと思い、北海道キャラバン隊を企画しました。
北海道キャラバンの目的は、札幌に来られない方をフォローするために札幌以外で相談会や交流会を開催する。あと、北海道の各地域で患者さん、ご家族、ご遺族との繋がりを作りたい。最終的には私たちが交流会を開かなくても、そこに住んでいる方同士で心のケアが出来るような仕組みができればいいなと思っています。今回の企画は、札幌で8月25日に行い、26日に苫小牧で、翌週の日曜に旭川で、またその翌週に釧路で、その翌週は函館でと、かなり強行スケジュールで行いました。
旭川には神奈川支部の鈴木さんにお越しいただき、山梨支部の有泉さんと関東支部の千歳さんにもお越しいただきました。遠方から来ていただいて、すごく有り難かったです。午前中はアスベスト被害相談会、午後は講演会と交流会という流れで開催しました。「みんなで一緒に、前を向いて笑顔に」というキャッチフレーズで行いました。
札幌~釧路は神奈川~福井の距離
北海道がどのぐらい広いかイメージできないかなと思って地図を持ってきました。この地図でいうと「札幌」が福井県あたり。「苫小牧」は名古屋付近。「旭川」が岐阜県と長野県と富山県が重なるあたり。「釧路」が神奈川県あたり。「函館」が奈良県あたりです。北海道支部はいつも札幌で集いを行っていますが、ということは福井で集まるから、愛知、岐阜、長野、富山、神奈川、奈良からみんな集合ということです。やっぱりすごく遠いなって思いますが、どうですか。神奈川から福井ってなかなか距離ありますよね。
実は釧路に行くときに、ちょうど北海道で大きな地震があり、JRが使えなかったので初めて道内を飛行機で移動しました。飛行機だと50分位で着きますが、値段が高いので、札幌で集いをやると、来たくても来れない患者さんやご家族がいるんじゃないかなって思いました。
医療者も患者さんの心のケアを考えている
北海道キャラバンの準備として、最初に北海道支部のパンフレットを作りました。患者と家族の会の本部のパンフレットはありますが、北海道独自の活動がわかったほうがいいかなと思ったのと、北海道支部会員の患者さんとご家族、ご遺族あわせて8名から顔写真とコメントをいただき、住んでいる方が見えた方が親近感を持ってもらえるかなと思い、パンフレットを作りました。あと、キャラバンのチラシを作り、これを持って各地域の患者さんがいそうな病院を全部で30件くらい訪問しました。実際に訪問してみて、医療者も、患者さんやご家族やご遺族の体だけじゃなく心のケアもしたいんだなということがすごく伝わってきました。がんサロンという交流の場を提供している病院がすごく多かったです。
実際に北海道キャラバンをやって良かったなと思ったのは、病院を訪問して情報を得られた点です。実際に行ってみないとアスベスト被害にあった患者さんがいるかわからないなと思ったことと、私たち患者に対してがんサロンで講演会をしてほしいという声をかけていただいたりしました。今後、患者と家族の会と連携してやっていきたいと言って下さる病院もありました。本当は北海道キャラバンの告知のために行ったのですが、こういった病院とつながりが持てたとのはすごく良かったかなと思います。
普段会えない方とお会いできた
北海道キャラバンには道外からもたくさんの方にお越しいただき、北海道支部としても普段お会いできないような方とお会いできて交流のきっかけになったり、支部の活性化にも繋がったかなと思っております。
一番遠くは福岡支部から世話人さんが来て下さいました。実際は北海道に住んでいる地方在住の方にもお越しいただき、当初の北海道キャラバンの目的でもあったので本当にやってよかったなと思いました。特に札幌、旭川、函館では満席になるぐらいの人にお越しいただき、苫小牧、釧路では少人数でしたが、その分、お話をじっくり聞けて、人数というのは関係無いなと私もすごく勉強になりました。釧路、函館に関しては、札幌から遠い地ですが、新聞を見て来て下さった会員ではない方もいらっしゃったり、そこに住んでいて札幌の交流会とかには来れないような会員さんも来て下さって、普段会えない方とお会いできるきっかけにもなったのかなと思いました。
あと、各会場でご遺族の方にも講演を依頼しました。私たち患者の講演もありますが、それとはまた違った、支える立場という点でのお話も伺えたのは、私もすごく勉強になりました。こういう感じの活動を北海道支部では行っておりました。
人のために何かをすること
次に、「人のために何かをすること」というテーマでお話させて頂きます。私は24歳のとき、14年に初めてがん患者としてボランティアの機会をいただきました。実は、治療の後で短大に戻ったら嫌がらせがあったり、片肺になったことで就職が上手くいかなかったことがあり、「がんはハンデ」という思いが自分の中にありました。
そんなある日、ボランティアとしてがんサロンに参加したのですが、そこに主婦の患者さんが一人来られてました。そして今にも泣きそうな顔でがん患者としての悩みを話されました。治療に対する不安とか、痛みや副作用はあるんだろうか、自分の入院中に子どもは大丈夫だろうかなど、がん患者さんだったらどこかしら共通する部分がこの悩みにはあるのかなと思います。
がんはハンデではない
そこには私の他にもボランティアが数名おられました。がんを克服された患者さんで、自分の体験を笑顔でお話されるんです。例えば、抗がん剤で髪が抜けちゃったという話。全然笑える話ではないんですが、そういうのを笑顔で笑いに変えてお話されました。そしたらだんだんとその主婦の患者さんも笑顔が戻ってきて、帰るときには、来たときの暗い顔が嘘のようにすごい素敵な笑顔で「今日来て良かったです」と言っていただけて、私はそれを見て、世の中にはこんな素敵な光景があるんだなと思ってすごく感動しました。がんはハンデではないんだということに気づかされ、自分の中で考え方を改めました。自分らしく生きることが誰かの笑顔になるんだというのを感じました。
ケーキプロジェクト
そこで、自分もがん患者として何かできることがあるんじゃないかと思い、そこの団体でケーキプロジェクトが立ち上がりました。がん患者の私が工場をお借りして、ケーキを販売して、他の患者さんにも元気を届けるということをやりました。工場を借りるって普段できないと思うんですが、ちょっとご縁が繋がって、とんとん拍子でいろんなことが決まってイベントなどで実際にケーキを販売できました。テレビの取材も入りました。ケーキを焼いて、それをみんなで食べながらいろいろ話したり、イベントで販売もしました。
「出来ない」と言えなかった自分の弱さ
このプロジェクトは継続出来ませんでした。人が実は私しかいなくて。ケーキ作りは人手が要るのでお手伝いさんもお願いしなくてはいけなかったのですが、それもやんなきゃいけない。会議の資料も作らなきゃいけない。イベント準備もしなきゃいけない。ケーキのカードとかも作んなきゃいけない。ほとんど自分でやんなきゃいけなかったのでどんどんいろんなことが増えていって、ついに自分の限界を超えてしまったのです。やっぱり自分の弱さとして、「出来ない」と言えなかったので継続できなかったと思っています。この限界を超えたことでフラッシュバックが起き、終わった後で当時の資料を見ていたら震えが出てきて、本当に自分の弱さだなと思って、そこですごく反省しました。ボランティアをしてフラッシュバックなど本当に恰好悪い話ですが。
自分の幸せを考える
すごく反省をして私が思ったことは、当たり前ですが、自分の足で立てない人間は他人のことは出来ないということです。人のために何かやるのであれば、同じぐらい自分のためっていうのは必要だと思いました。自分の幸せを考えられなかったらどんどん自己犠牲が増えて、最終的にフラッシュバックを抱えるとか、最悪のケースだと何かそういうふうになっていくのかなって思いました。
なので今回の北海道キャラバンに関わった時、当時の反省点を思い返し、少しでも無理だなとかやりたくないなと思ったらはっきりと「もう無理」と言うようにしました。そしたら皆さん優しくて、「じゃあいいよ、やるよ」とか言って、自分のできないことをやって下さるので自然と感謝もわいてきて、今度は自分が何かお返ししようと素直な気持ちで思えました。何か循環というんですか、北海道キャラバンやって、私はそれがすごく良い人間関係だなと思いました。
ボランティアにかかわらず日常生活でも、自分がやりたいからやるという気持ちはすごく大事かなと思っています。私は、なるべく「自分がやりたい」という気持ちを大事にしてボランティアをさせていただいています。当時の、穴があったら入りたい、反省点から学んだことでした。ありがとうございました。