センターを支える人々:成田博厚(名古屋労災職業病研究会)

■もうすぐ専従生活10年

名古屋で労災被災者や職業病の患者さんを支援する名古屋労災職業病研究会(以下、労職研)の専従職員になったのはリーマンショックの影響が色濃く残る09年3月2日でした。気が付いたら間もなく専従生活まる10年になります。また、アスベストユニオンの執行委員としてアスベスト被災者の救済活動を通じて神奈川労災職業病センターの川本さんや早川さんにはいつもお世話になっています。今年は岐阜や静岡でニチアス元労働者じん肺裁判やマルハニチロの被害者の裁判が始まります。ですから私は「センターに支えられる人」であっても、「センターを支える人」ではないのですが、原稿依頼を受け、普段お世話になりまくっていることから原稿をお断することもできないので、私が専従になりたての頃のことを少しご紹介します。

■外国人の労災相談

労職研の専従になる前、私は会社に勤めながら、今は無くなった「管理職ユニオン東海」の執行委員として、派遣切りにあった労働者の対応をしていました。専従になったばかりの頃、当時多かった南米出身者の労災相談に混じって、四日市の漫画喫茶で夜を明かしたが所持金が尽きたという女性から電話相談を受けたことが強烈に印象に残っています。この時は四日市市役所保護課に電話を入れ、女性に保護課に行くよう話ました。

労職研に入った当初は外国人労働者の労災支援ばかりしていました。トヨタ系部品会社で転倒し頚椎を損傷し四肢麻痺になった日系ブラジル人男性や、コンビニ向けスイーツを製造している会社で水あめの一斗缶を機械でつぶす作業中に機械に腕を挟まれCRPS(複合性局所疼痛症候群)を発症した元弁護士のペルー人男性のケースなどは今でも思い出します。

■頚椎損傷のブラジル人

頚椎を損傷したブラジル人男性のケースは、被災時の目撃者がいなかったことから労災認定まで時間がかかり、生活保護や障がい者手帳の申請支援の他、被災者が何も出来ない状況だったので病院や会社や監督署との折衝など何でもしました。労災認定され、生活保護を止める為市役所に一緒に行った時、男性が労災と生活保護の両方をもらえると勘違いし、生活保護を止めないでくれと私に懇願してきた時の顔が目に焼き付いています。

■CRPSのペルー人

CRPSのペルー人男性のケースでは、会社が毎月の休業補償給付請求書の事業所証明をわざと何週間も放置する嫌がらせをしていたことから、会社に請求書を送付するたびに総務担当者に電話をかけることを1年以上しました。症状固定まで数年かかり、男性は英語が堪能だったこともあり、相談以外にも様々な話をしました。「日本に来たのは働く為というより妻が日系だったのでアドベンチャーのつもりだった」と話していたことを覚えています。男性が住んでいたアパートからお連れ合い、子供ともども追い出され、不動産屋と交渉もしました。このブラジル人男性とペルー人男性のケースは最後にユニオンで補償交渉を行い解決しました。

■指切断したロヒンギャ族

難民申請していたミャンマーのロヒンギャ男性の支援も印象に残っています。小さな食品会社で機械に手を巻き込まれて指2本切断し、相談に訪れました。最近になってミャンマーでロヒンギャの人々が迫害されているニュースに触れ、ロヒンギャという民族を知りましたが、当時は、ミャンマー国籍にもかかわらず、イスラム教徒でイスラムの料理を好み、立派な髭をはやしたイスラムの男性が仏教徒のイメージが強いミャンマー人であることを不思議に思っていました。男性は労災認定されましたが、支援から数年後、中古自動車輸出業をしている時に名古屋入管に収容され、収容所の待遇改善を求めてハンストを行ったことが大きく中日新聞に載りびっくりしました。

■労災続きのトルコ人

今年に入って、トルコ人男性Aさんが指を骨折したと来所。「解体中に骨折したが社長も労災申請のやり方が分からないので自分で申請してと言われた」とのこと。実はこの男性は労災3回目。最初は2010年、解体現場での指の切断事故でした。解体屋の社長が労災請求書に事業所証明をしないというので、本人を車に乗せ、岐阜駅近くの会社の土場や小牧市の被災現場まで確認に行ったりしました。解体屋の社長どころか、解体屋に仕事を回したブローカーまで元請けを明かさず逃げるありさまで、労災認定まで時間がかかり、Aさんから「いつ労災のお金くれるの。私、生活できない」と何度も私に電話がかかってきました。

2回目は解体中の家屋の屋根からの転落事故で腰の骨を折り入院した名古屋東医療センターから私に電話してきました。指の障害補償給付が出て間がない時だったので、私は携帯電話を握りながら絶句しました。労災請求の手伝いをするため東医療センターに行くと、キャスター型歩行器に寄りかかったAさんが病院の廊下を「ろうさい、ろうさい」と言いながらスイスイと私に近づいて来た姿は忘れられません。この後、多くのトルコ人労災被災者が当団体を訪れるようになりました。

当初、日本語も英語もほとんど分からなかったAさんは、先日の来所時はかなり日本語が分かるようになっていました。在留資格も10年は難民申請したばかりでしたが、現在は永住資格を持ったタイ人女性と結婚し日本に定住可能な資格になっていました。トルコから呼び寄せた息子さんは日本人女性と結婚したと、スマートフォンで、生まれたばかりのお孫さんの動画を見せてくれました。今は、Aさんが4回目の労災に被災しないことを祈っています。