マルハニチロ損賠請求裁判 第1回口頭弁論
6月14日、大洋漁業(現マルハニチロ)の船員としてアスベストにばく露したことが原因で、石綿肺などにり患して亡くなられたTさんのご遺族が、同社を相手取る損害賠償裁判の第1回口頭弁論が東京地裁で行われた。当日、息子さんが意見陳述した内容を紹介する。
私はアスベスト被災者の長男であるTです。今年67歳になりました。生まれは東京ですが両親が将来故郷に戻りたいと言っていたので42年前に長野県に家族揃って引っ越してきまして現在に至っています。
父は、南氷洋捕鯨船団や母船式サケマス漁業の中の冷凍船や母船の機関員として、昭和23年から昭和54年まで31年間船の仕事に従事しました。機関員は、船舶を動かすエンジンを始めとする電機設備に供給する発電機のメンテナンスを主として行っていました。
しかしながら一旦航海に出ると、限られた人数しかいないために機器に損傷やトラブルがあった場合には船を止めるわけにいかないため、保守作業、それもその場で判断、処置を行ない必ず直さなければならないというプレッシャーがあり、相当なストレスが多々あったようです。縁の下の力持ちとして父がこの船を1航海無事に動かしてきたのかなと思うと我々家族のために努力、苦労してきた父を男らしい立派で素晴らしく尊敬出来る父だと思いました。
しかし我々家族には仕事がつらいとか辞めたいなんて言うことは一切ありませんでした。本当にこの仕事が父には合っているんだなと思いました。
私は小さい頃(小学校時代)、航海が終わって港に停泊し下船するまでの間、良く船に連れて行ってもらい船の中を案内してくれました。私も父の影響で機械には子供心で興味があったので喜んで見たものでしたが、半面、船底近くに階段で降りていく時には機械の騒音や熱気で多少の不安を覚えたことを記憶しています。私も将来船乗りの夢を持ちそちらの学校へと思いましたが諸事情により断念しました。しかし夢は捨てきれず機械系の大学に進ませてもらいました。
1航海半年余り会えないと言うことは普段の生活も一緒にできませんでした。運動会や音楽会などの行事にも参加してもらえませんでした。また、進路や男としての悩みを父に相談出来ず子供心に寂しさを感じていました。父は日頃から『子育ても出来ず子供の成長を見られなかった』と言っており、私以上に残念に思っていたことと思います。
父は郷里に戻った後、しばらくして会社を退職しましたが、今まで母とは一緒に過ごす機会が少なかったので今まで会えなかった分を取り戻すかのように2人でよく旅行に行ってました。特に温泉は好きで、近くの温泉場を車で回ったり楽しみにしていた年1回の会社OB会には遠くまで母を連れて参加して旧友との再会を楽しんでいました。
また、隣県に住む同僚だった男性とも夫婦同士で行き来していました。私もそのご夫婦とご一緒した時『親父さんは部下の面倒見がよく、部下から慕われていたよ』と聞かされ、誇りに思うし優しい父らしさが表れているなと思いました。
囲碁や短歌を詠み始め、また先生の指導の下、自分史の作成講座にも積極的に参加し、今までの閉鎖された世界から一気に爆発して人生を楽しんでいました。そのうち私も地元の人と結婚して子供が出来まして、その世話も嫌な顔をせず面倒を見てくれました。私より父に懐いたくらい孫を溺愛していました。きっと私の小さい頃の面倒を見られなかった分、孫をかわいがったのでしょう。
自らも戦争を体験し、兄弟3人を戦争で亡くした父ですから出来る限り長生きできるよう食事や体には十分注意を払っていました。母も父の健康管理には口うるさいほど注意をしていました。ところが平成14年10月に受けた健康診断で胸部異常を指摘されました。
アスベストによる石綿肺との事でした。医師から石綿肺と言われても父には症状も出ていませんでしたし本人も『大丈夫、何とも無い』と言って普通の生活をしていましたし症状も出ていなかったので我々家族もそれほど深刻には考えていませんでした。
医師も、父が高齢なこともあり、進み方もゆっくりであろうから『経過観察して症状が出てから対処しましょう』ということになりました。私としては当時の船の機関室にはアスベストが使用されていたことを知っていたので、現役時代の仕事場から罹患したと考えていました。その頃から父はポケットティッシュを常に携帯し痰を出していた記憶があります。
その後10年程、何の異常もなく幸せに暮らしていました。しかし徐々に症状は悪化し、咳と痰が多く出ているように感じました。
平成25年2月に胸部骨折という事故にあいました。これを機会に父の健康は一気に下降線をたどっていったような気がします。以前、心筋梗塞で倒れた時も家族に心配をかけまいとして『大丈夫だ、大丈夫だ』と弱みを見せない父でしたが、今回は徐々に体力が落ちていくのがわかりました。食欲が落ち、スーパーで買い物を一緒にしても途中でショーケースの淵に寄り掛かったり深呼吸をしたりして辛そうでした。
一度、散歩がてら近くのコンビニエンスストア(自宅から約450m、徒歩5分の距離)に父と母が2人で買い物をしに行った事があったらしく、帰る時父が疲労で歩けなくなり、見知らぬ方に車で送ってもらったことがあったと言う事です。母も心配性なのですぐ近くの行きつけの医院に罹りましたが、大きい病院の方がいいと言われたので総合病院を受診しました。総合病院は広いので、入り口から待合室まで距離があるのですが、歩き始めてしばらくすると息が上がり急遽、車いすを用意し乗せて移動しました。
本人は待合室まで歩いて行かれると思ったのでしょう。車いすに乗らざるを得ない状況が納得いかないようで、元気だった頃の状況と極端に変わった父の姿を目の当たりにして私は信じられませんでした。こんな姿を今まで見たことがなかったからです。待合室で待っている時もうつむき加減で息が荒く、早く順番が来ないかなと気が気でありませんでした。
診察の結果は思わしくなく、次の日入院となりました。入院後しばらくしてから主治医からお話があり、『これ以上よくなることはありません。寿命と考えてください』と言われたときは、寝たきり状態ではない父がもう寿命なのかと信じられなく、受け入れがたい事でした。
半信半疑でしたが、出来ることは悔いが無いようにと思い、入院中本人や家族の希望であった自宅への一時帰宅を実現するため、私自身が看護師に教わり痰の吸引作業をやってみましたが、やったことがない私には気管支を傷めたりしないかとか鼻から管を入れた時の父の苦しみを見たら到底できるものではありませんでした。それと並行に、自宅には医療用ベッドや吸引機をレンタルして自宅に設置しましたが、症状はさらに悪化し、医師も自宅で面倒を見るのは無理でしょうと言われ、レンタルした医療機器類は一日で返却しました。
主治医から『この病院ではこれ以上治療することはできない』と言われ、看取りの出来る病院へ転院せざるを得ませんでした。移動は酸素吸入をしながら我々家族が行いましたが、病院を追い出された惨めさと辛そうな父の姿を見て申し訳なさでいたたまれなくなりました。転院後、父はわずか2週間でこの世を去りました。我々家族には言いませんでしたが、甥には『俺はもうだめかもしれない』と言ったそうです。
死去した日は余りにも突然な事でした。我々が駆け付けた時はすでに意識はなく、強制的に酸素を送り込んだり、心臓マッサージをしている状況でした。最後の最後まで父に対して何もやれなかった事や寂しい思いをさせたことに自責の念に駆られました。酸素吸入をやめてもらい手を握っていると徐々に手が冷たくなっていくのが感じられ『あーあ、これでお別れなんだ、人の一生なんて何とはかない事なのだろう』と寂しさを感じたと同時に『家族のために頑張ってきてくれてありがとう』と心の中で叫びました。
もし、アスベストに罹患していなければ、これまでの苦しさは無かったと思いますし、もっと長生きして、ひ孫の顔まで見られたのではないかと思うと、安易に考えていたアスベストに対して憎しみと怒りを感じます。
アスベスト被害はだいぶ前から危険性がわかっていたのに、会社側は何の予防処置もとっていただけませんでした。多少でも予防策を実施していればこのような事にはならなかったと思います。その時はアスベストの症状が出ていなかったから対策しなかったのでしょうか? あまりにもひどい問題軽視だと思います。
本当は、私としては裁判に持ち込みたくはありませんでした。家族も乗り気ではありませんでしたが平成30年4月の団体交渉の時、我々を馬鹿にしたような回答『何しろ古い事なので、また会社も合併したりして資料が無く、調べようが無い。これで団体交渉は終わりです』の一点張りで、我々がもっと調べてほしいとお願いしても門前払いの格好で会社に持ち帰ろうともしませんでした。
また、同年9月には、弁護士を通じて内容証明の文書を送りましたが、これもまた拒否の返答でした。本当に父の事を真剣に考えてもらっているのでしょうか? 何か調査を少しでもやってくれたのでしょうか?
今までのこのような回答は到底我々家族は受け入れられるものではありません。
アスベストによる死亡を認めてもらうのと、我々に対する侮辱の謝罪を求めるため、やむなく提訴に至りました。貴社所有の船舶でアスベストに罹患したことは明らかですので訴状を真摯に受け止めて頂き、謝罪の言葉が欲しいです。
私は今回、被告の安全配慮義務違反に対して提訴しましたが、当時被告の会社では相当数の方が父と同様な作業に就いていて、今なおアスベストで苦しんでいる方がおられると思います。これを機会にアスベスト被害者の苦しみを知っていただき、今後、被害者をこれ以上出さないよう願うばかりです。また、悪条件下で働く方の職場改善ができることを期待します。