センターを支える人々:三木恵美子(弁護士・横浜法律事務所)

私の生まれて初めての海外旅行は1987年11月のネパールでした。ヒマラヤを見てみたいというのが一番の動機でした。ようやく司法試験に合格して、翌年4月に司法研修所に入所するまで時間があったので、行くことにしました。

ネパールの首都カトマンズの空港では、飛行機に預けていた荷物をリヤカーで運んでくれました。ピックアップの台の正面に王様の写真が飾られていました。ネパール第2の町ポカラ行きのバスには鶏や山羊も乗っていました。途中、崖崩れが起きそうだというのでバスから降りて歩くことになり、8時間の予定が16時間位かかりました。How far (どのくらい遠いか)とHow long(どのくらいかかるか)はネパール語でどういうのかと尋ねたら、Kati gantaつまり何日ですかだと教えられました。たぶん、歩く以外の移動手段が無かったためでしょうか。hour(時間)、minute(分)、second(秒)、meter(メートル)、feet(フィート)など外来語をそのまま使っていました。

ポカラから出発するアンナプルナ山郡を見るトレッキングルートは昔からの行商の道です。一山越えると村の人たちの顔の感じも衣装も変わります。私は、単語帳を作りながら歩いていましたが、一山越えると言葉も変わりました。トレッキングの最初の頃は、髪を洗おうとして川の水をすくうと恐ろしく冷たく、脳しんとうを起こしそうになりました。それで、断念すると、その後は、地元の人たちと同じで、ずうっと洗わなくても平気になりました。子どもたちが単語帳ノートを触ると指紋がノートにくっきりと移りました。へえっと思っていましたが、1週間たつと自分の指も同じような状態になりました。

子どもたちはほとんど裸足で歩いていて洋服も着たきりでした。棒のように細くてまっすぐな足をしている子どもをたくさん見かけました。学校に通う子はわずかで、その子どもたちは羊や役や馬を追いかけながら通学していました。女の子で学校に行っている子は、本当に稀でした。大人の女性たちも華奢で小柄なため、152㎝の自分が大女のように感じました。

チャンドラコット、月の涙という名前の村に、かなり停滞し、その後、カトマンズに戻り、ランタン山郡を見る谷を北上しました。日本だと、山の出っ張りに細かく名前をつけますが、ネパールの人たちは、みんな、山としか言いません。余りにも標高が高いので、日本のような信仰登山の対象にならなかったせいかもしれません。カトマンズに戻って、帰国しようとしたのですが、なぜか、帰国の飛行機に乗り遅れ、またずるずるとカトマンズに停滞し、最高裁で行われる健康診断の日の直前になって帰国しました。南京虫に噛まれた痕がたくさんあったので、お医者さんに驚かれました。

今年の10連休、ネパールに行きました。カトマンズ空港には王様の写真はなくなり、ターンテーブルが電気で回っていました。かつて王様が鹿狩りに使っていた森が、リゾートホテルになっていました。道を歩く女性たちは筋肉がちゃんと付いていて、身長も高くなっていました。サリーよりも、パンジャブドレスというパンツスーツを吐いている人が圧倒的に多くなりました。空港の職員にも、渋滞する道路の交通整理をする警察官にも、女性たちが目立つようになりました。

そして何よりも、男女を問わず子どもたちが制服を着て、小学校、中学校に通っていました。子どもたちは皆、靴を履いていました。制服はお仕着せですが、女子はスカートと決められておらず、パンツも選択できるそうです。そして、スカートから出ている足には筋肉がしっかり付いていました。カトマンズを出て、エベレストを望む街道沿いに歩きました。山の中の学校でも子どもたちは体格が良く、活発で、息も切らさずめちゃめちゃ速いスピードで山道を歩いて登校していました。

拡大しつつあるカトマンズの街はゴミの山が堆積し、聖なるガンガーも詰まっていて、本当に大変ですが、ネパールは、確実に人々の表情が明るくなり、未来が開けているという印象を持ちました。山は、変わらず、美しかったです。

ですから、やっぱりネパールが好き。事務所の同僚に、死ぬまでにもう一回だけ旅行に行けるとしたらどこに行きたいかと尋ねられ、やっぱりネパールだと答えました。