旧日立田浦工場のKさんの中皮腫裁判が始まる
アスベストユニオン活動報告
早川 寛(アスベストユニオン執行委員)
日立は、アスベスト被災者に対する加害者意識ゼロ!
横須賀市の田浦にあった日立田浦工場は、日立の子会社で、産業用機械や発電所向け機械、ボイラー等を製造する工場だった。日立田浦はその後、吸収や合併を繰り返し、すでに工場はないが、日立パワーソリューションズという日立直系の企業として繋がっている。
Kさん(1941年生まれ)は1961年に日立田浦に入社、主に溶接作業に従事した。12月24日の横浜地裁横須賀支部での第1回裁判でKさんは次のように陳述した。
「製缶構造物の溶接班に配属され、産業機械や発電設備等の溶接作業に従事しました。当時は予熱後熱を必要とする金属を溶接するときにアスベストのシートで保温しており、相当濃密なアスベスト粉じんにばく露した」。しかし「有害であることを知らされず、自分で用意したガーゼのマスクを使用して作業に従事していました」。
1999年5月に退社したKさんは2015年12月に胸膜中皮腫を発症。労災認定され、入院手術した病院で全造船浦賀分会の退職者で同じく中皮腫を発症したSさんと知り合う。その縁で17年1月にアスベストユニオンに加入。会社に対して団体交渉を申し入れ、同年5月に第1回、7月に2回目、翌18年6月に3回目の交渉が行われた。
会社の回答は、(1)東日本大震災のためKさんが在職していた頃の資料は津波をかぶり廃棄されている。(2)しかし当時の同僚や職制などから話を聞き、労基署への申請に協力した。(3)Kさんの中皮腫発症と日立田浦での業務との関係は否定できない(他にも2人報告が出ている)。(4)日立本社にはアスベスト被害についての補償規定がある(アスベストによる労災で亡くなった場合は1千万円の見舞金支給)。(5)日立本社は国賠裁判の推移を見てこの見舞金制度を見直すと聞いている。それまでは何もできないという回答だった。
企業責任は否定しないが、補償のことは本社がやる(制度を変える)ので待ってくれ(子会社の責任ではない)と聞こえる内容。それにしても「制度は春闘時期(19年3月)に変えると聞いている」との話も、春が終わり夏が過ぎても回答はなく、しびれを切らし10月25日、Kさんは、日立パワーソリューションズに対する損害賠償を求める裁判を横浜地裁横須賀支部に出した。
裁判の陳述でKさんはこうも言う。「会社は当事者意識がゼロでした。会社の仕事によって体力が衰えた人の命をもてあそぶような、また死ぬことを待つような振る舞いや時間稼ぎは許せません」「会社は日立本社のことを持ち出しています。しかしそれなら日立本社がアスベスト被害に対してきちんとすべきです」。
19年12月24日に横浜地裁横須賀支部で行われたKさんの第1回裁判には、ご家族や横須賀じん肺被災者の会、全造船浦賀分会、全駐労、ユニオンヨコスカなど30名近い仲間が傍聴に駆け付け傍聴席があふれた。これまでの横須賀でのアスベストの闘いの厚みを感じさせる1日だった。
中皮腫死亡のNさん遺族が、日立本社を相手に裁判開始!
日立本社関係では100人近い労働者や退職者がアスベストのために命や健康を奪われている。そのうち3分の1を占めるのが車両工場である日立製作所の笠戸工場。ここで61年から79年まで働き、その後岐阜工場に配転し定年まで日立で働き、入社から55年経って胸膜中皮腫を発症したNさん。存命中に日立本社と団交したが、その場で「団交の会場費の半分(800円)は日立が払ったので、あとはユニオンが払え」という発言と態度。その後Nさんが亡くなるや「遺族との団交はしない」。
定年まで働いた労働者とその家族の多くは、「いろいろあったが会社は自分を悪いようにはしない」と切なる思いを抱いている。ましてや中皮腫。それを冷たくぶち切られ、どんなに辛い事か。Nさんのご遺族は日立本社を相手に19年10月、岐阜地裁に損害賠償裁判を提訴。11月20日の第1回期日ののっけから裁判長は日立側に「組合と交渉したんでしょう。和解で解決できるのでは」と問いかけ、すでに筋道が見えている裁判。それでも日立はとぼけて争う気なのか!